
深見東州氏の芸術論の原点

深見東州先生は、洋の東西を問わず、幅広く芸術に取り組まれてきました。オペラ、西洋画、そして能楽、書、墨画など、幅広く技術を磨かれています。
同時に芸術の歴史にも詳しく、芸術論においても揺るぎない見解を持たれています。
クラシック音楽や絵画の世界では、モーツァルトがいた時代ぐらいまでは、貴族がパトロンとなり、そのパトロンが喜ぶような音楽、絵画を描いていたそうです。その時代は、パトロンの庇護がなければ芸術家はやっていけなかったのでしょう。
なので依頼を受けて、絵を描いたり、音楽を作ったりしていたようです。それよりも早い時期であるルネサンス期も、そういう形でパトロンに喜んでもらえればそれで良かったのでしょう。
でも、そこに普遍的な価値があったので、今日までたくさんの傑作が残っているわけです。
しかしその反動で19世紀からは、プロレタリア芸術が生れてきます。これは政治的なイデオロギーを宣伝するために制作されたもので、プロレタリアの思想と感情を反映して、労働者や農民などの生活を描写し、闘争精神、希望、欲求、努力などを表現したものです。
そして支配者の圧制や虚偽や腐敗などを暴露的に表現したものになります。
フランスでは、そのようなプロレタリア芸術でもないし、貴族のお抱えでもないと信じる人々による「芸術のための芸術」という新しい価値観が生まれてきたそうです。その価値観が、今日まで続く芸術論の主流になっているそうです。
芸術の価値は何らかの道徳や教訓的な目的に奉仕することであると考える人々を、物ともせずに掲げられた標語が「芸術のための芸術」だったそうです。日本では芸術至上主義とも呼ばれていて、信仰や愛国主義や道徳的な価値観などとも無関係でなくてはならないというものです。
しかし芸術は美を追求するものですが、真・善・美という言葉があるように、それらは互いにその要素を持っていると言われています。たとえば善なる信仰や道徳観とは全く無縁の芸術になると、退廃的な芸術になったり、道徳的な価値観を廃れさせてしまう方向へと進みかねません。
その美学は、深見東州先生によると普遍的なものではないし、絶対的なものではないと言われていました。フランス人が勝手に作った価値観であると言われていました。

ワールドメイトで深見東州先生から聞いた話によると、15、16世紀の日本では、阿弥という人たちが活躍していたそうです。観阿弥、世阿弥など、阿弥がつく人物があの頃はたくさんいますよね。
時宗の影響により、南無阿弥陀仏の阿弥からとったものだそうです。南無は俗人、陀仏は出家を意味し、阿弥はその間にあることから俗人でもない、出家でもないという意味になります。
自分たちはそういう阿弥であるという誇りを持って、当時の阿弥たちは、芸道を続ける過程で魂を磨いていました。そして、それを作品として表現していたのだそうです。
深見東州先生は、これを日本型のルネッサンスと言われています。そこにある美学は、19世紀のフランスの美学よりも普遍的であり、より深い芸術論が西洋のルネサンス期の前に、日本ですでに生まれていたと言われていました。
その一つの象徴として、世阿弥の書いた演劇論と言える「風姿花伝」のことを、よく取り上げられます。そこには花という概念があります。その花とは、観客の感動であり、観客を感動させる神なるものであり、輝かしい花のような美のことであると言われていました。
この花伝書を読むと、どんな演技も観客が感動しなければ意味がないことがわかると思います。中でも年を経て外見の花がなくなっても、演技の花で観客を感動させるのが花の中の花であると言われていました。
先ほどのフランスで発生した「芸術のための芸術」とは、明らかな違いがあるのが、一目瞭然ですね。
深見東州先生の芸術の原点もそこにあるのでしょう。深見東州先生にとっては、西洋芸術は愛すべきものではあるけども、尊敬するべきものではなく、日本文化というものに自信と誇りを持っておられるわけです。
だからこそ、一流のオペラをやるにしても日本流に演出してみたり、とにかく観客に楽しんでもらえることを大切にされているわけです。
なぜ深見東州先生が、西洋芸術の基本を大事にしながらも、自由な発想で舞台を作られるのかというと、そのような考え方が根底にあるのも、大きな理由の一つなのだろうと思いました。
だからクラシックファンなどで、西洋芸術をひたすら尊敬している人にとっては、理解ができない部分があるかもしれませんね。でも、私は、深見東州先生の芸術に対する考え方に共感いたします。それが、より本来の芸術のあり方であると思いますし、芸術という美の本質をついていると思うからです。
深見東州先生が行うオペラやクラシックは、あるいは書画にしてもそうですが、ちっとも堅苦しくなく、本当に見ていて楽しめるものばかりです。それは深見東州先生の美学が、芸術のための芸術ではなく、見る人に感動してもらい、喜んでもらおうという芸術だからなのでしょう。それこそが、後世にまで残っていく普遍的な価値を持つ芸術作品であると確信いたします。