深見東州 (半田晴久) 氏のさまざまな活動に参加してきたワールドメイト会員が案内します

人生を諦めない、どこまでもチャレンジすることが尊い

Fuziwara

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第25回深見東州バースデー個展開会式での深見東州先生の挨拶を、かいつまんで紹介したいと思います。

いまさらですが深見東州先生という方は、おそらく世間の人からすると、謎の人物だと思います。

なぜ、あんないろんなことをするのか。そしていろんなことができるのか。そのエネルギーはどこから来るのか。これだけでも、謎ですよね。

ワールドメイト会員でも、それをよく理解していない人が多いです。僕も、どこまで理解できているのか、全く自信はありません。ましてや、中途半端にしか深見東州先生のことを知らない、世間の人たちからすると、理解できないのは当然だと言えます。

だから、僕もたまにインターネットで深見東州先生の噂を見たりしますが、本当に頓珍漢な意見ばかりで、吹き出しそうになります。

怪しい人物のように思うのは、まだかわいいものです。世界でどれだけのことをされてきたのか、そのすべてを知る人は、まずいないでしょうし、僕はそんな一人になりたいと思ってはいますが、それでも無理があります。

たとえ、その素晴らしさの一端を知ったとしても、世間の人は、何か裏があるのではないか?自分の名誉のためにしている、欲深い人間ではないか?影で悪いことでもしているのではないか、みたいに何の根拠もなしに、疑念を抱くものです。

そうかと思うと、ユーモアがあり、面白い人だから、きっと悪い人ではないと思うみたいなことも書かれてました。面白い人が悪いことをしないとは限らないわけですが、事実、凶悪犯が、ふだんは面白い魅力的な人物だったりしますからね。

何を言いたいのかというと、そのように世間というのは、どんなに良いことをしていても、全くそれを評価しないどころか、何か悪巧みをしているかのように言う人が、けっこう多いと言うことです。逆に、思いもかけないようなことで、良い人だと言われたりすることもあるわけです。

深見東州先生の今回のお話の一つに、絵画作品に対する専門家の評価がありました。深見東州先生の絵画作品を高く評価する美術家は、かなりいらっしゃるようです。

しかし、深見東州先生がこれはどうだと思って描いたものが、意外とそんなに評価されずに、何も考えずに、てきとうとは言いませんが、描いたものが、これはとても素晴らしい作品だと高く評価されるそうです。

美術専門の評論家でさえ、自分の価値観で思い思いに評価するわけですよね。ある意味、インターネットにおける深見東州先生の評判も、それと似たところがあるなと、そんな感想を持ちました。

だから深見東州先生は、作品がどのように評価されるとかを気にせず、とにかく自分が良いと思ったものを、死ぬまで描き続けるだけだと言われていました。

専門家や世間の評価を気にされないから、なんと言われようとも、どう思われようとも、エネルギーが衰えることがないのかもしれませんね。

実は、その奥には老荘思想があることが、最近理解できました。

老子の哲学は大変難解と言われていて、それを正しく理解している人は、あまりいないかもしれません。

前回の記事では、最後にロンドン大学に寄贈された能楽堂について書きました。そこから、能楽について熱心に研究し、実践する欧米人が出てきたわけですが、その能を確立したのが観阿弥・世阿弥親子と言われています。

世阿弥の著作「風姿花伝」には、「秘すれば花なり」という有名な言葉があります。深見東州先生は、能は、徹底した省略の芸術であると、解説されてきました。

最小限の動きしかしないから、内面でその美を表現しなくてはいけません。そこが一流の能楽師の分かれ目でもあるとも言えます。

「秘すれば花なり」と世阿弥が書いたのは、「隠せば現れる」という意味があり、つまり能が省略の芸術と言われる所以は、まさにこの一言で理解できると思います。

それは老荘思想から来たものであり、世阿弥が老荘思想を深く理解していたことを深見東州先生は喝破されていました。

西洋の舞台芸術のように、わかりやすい大袈裟な表現はせず、最小限度の動きで、美を表現するのが世阿弥が確立した能です。隠そうとするから、本物の美が現れてくることを、「秘すれば花なり」という言葉で表したのでしょう。

そんな能の表現方法に、欧米のアーティストやパフォーマーが関心を寄せ、取り入れようとしていることは、前回の記事で紹介しました。

また老子には、簡単に意訳しますが、「学するものは日に日に益し、道するものは日に日に損す。損して損して無為となす。無為にして無さざるはなし」とあります。これも難解な言葉ですが、深見東州先生は、ある意味、そのような生き様をされています。

この世の名誉も地位も評価も、すべて捨てていくと、最後は無為にして無さざるはなし、なんでもできるようになるんだよ、という意味なのでしょう。神の道に生きる深見東州先生がなんでもできるのは、その言葉通りに実践されているからだと思います。

ただ、そのように言うと、深見東州先生には名誉も地位も、高い評価も資金も、あらゆるものがあるではないかと言われそうです。事実そうだと思います。

深見東州先生は、行動は儒教的で、内面は老荘思想という、名前を忘れましたが、ある歴史上の人物のことを評価されていました。

深見東州先生ご自身も、ふだんは、仁義礼智信の現実を大事にする生き方をされています。前回の記事で書いた、友人のカオ・キム・ホルン氏が、まだ学者だった頃、アジア・エコノミックフォーラムを開催したのですが、大物が来ると言って約束しておきながら来なかったりしたそうです。

そのことを嘆いていたカオ氏に深見東州先生は、ある程度の地位や名誉、権力を持っていないと、そのような人物は来てくれないものですよ、とアドバイスされています。

いくら良いことであっても、相手は、その人の持つ力を見て、参加をするかしないかを決めるわけですね。

それで、本当にカンボジアの人々のことを思うのであれば、政治家になった方が良いと言われて、カオ氏は政治家になることを決心します。今ではASEAN事務総長にまでなられたわけですが、そうすると、何も言わなくても、相手の方から近寄ってくるようになったそうです。

なので、深見東州先生ご自身は、そのような名誉も地位も財産も権力も、何もかもいらないという捨てた境地でいるから、なんでもできるようになられたのでしょう。

一方で、本当に社会に貢献し、人々を幸せにしたいのであれば、現実にはそのような地位や名誉、資金も必要になります。

それで、さまざまな肩書きもお持ちですし、ある程度の資金力も持たれているわけです。そういうものもなければ、理想だけいくら高くても、現実には何もできませんからね。

そして、最終的に会社経営も芸術も福祉活動も宗教も、何をやるにしても、それは人々が幸せになれば良いことであり、社会が良くなればそれでよいと。そのような精神で、片っ端から良いと思ったことを死ぬまでやり続けるだけです。そんなお話だったと思います。

だから、何歳になっても、どこまでもエネルギーが湧いてくるのだそうです。

とはいえ、年齢も重ねてくると、だんだん何事も面倒になるものです。だから、そんな自分に喝を入れるためにも、毎年広告を打って個展を欠かさず開催されるのでしょう。そうすると逃げられませんからね。

深見東州先生が、みんなに言いたいことは、人生を諦めない。どこまでも挑戦し続けることが、人生において尊いのです。と言うことでした。

それは、日本の神道の精神そのものでもあり、倒れても倒れても、起き上がり、カムバックしてきた大国主命のような生き方でもありますね。そんな乗り越えていく魂の力、輝きに、価値を見出すのが神道なのだそうです。

ワールドメイトでは、一霊四魂の中では、忍耐と勇気を司どる荒御魂の力が最も大事だと言われていました。

ということで、深見東州先生には、老荘思想があり、儒教の仁義礼智信があり、仏教の教えもあり、そして神道の精神が何よりもあるわけです。

そんな深見東州先生が教祖であるワールドメイトが、それらの宗教の教えを説いたりするのは、全く必然であり、いいとこ取りでもなければ、おかしなことでもないわけです。

むしろ、すべてのエッセンスを活かして、最高の人生を送る秘訣がそこにあるわけですから。

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ワールドメイト会員歴は30年超
以前、「深見東州(ワールドメイト代表)の実像に迫るサイト」を運営していました。わけあって、新たにサイトを立ち上げる事にしました。昔、書いた記事はリライトしてから、随時、こちらのサイトに投稿する予定です。
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