ワールドメイトで何を学ぶ?
読書の秋といいますが、ワールドメイトでは読書の冬
ワールドメイトでは、季節にはそれぞれの気があるといわれます。たとえば、今これを書いているのは冬の真っ最中ですが、この冬の時期は水の気が動くと言われていました。この冬の水気を天水といい、悟りの知恵を意味するそうです。
そして冬は「蔵」、エネルギーを蔵する時期だとも聞きました。
そういうことから、ワールドメイトではこの時期を冬神業といって、魂に天の教えやエネルギーを蔵する期間だといわれます。中でも節分から3月半ばくらいまでが、目に見えない無形の魂の世界を勉強する天の時なのだそうです。
そしてこの時期は、たとえば読書は年間通してずっと行うと思いますが、特にそれが大事だと言えるでしょう。
読書と言えば、ワールドメイトの深見東州先生の30代半ばの頃のお話だと思うのですが、すでに5000冊くらいは読破されていたようです。現在は、いったい何冊ほどになるのかわかりませんが、とにかく膨大な読書量だと思います。
その読書量もすごいと思いますが、実は深見東州先生のすごいところは、その読まれた本の内容が、必要なときにスラスラとそらんじて出てくることです。ワールドメイト会員は、深見東州先生のお話を目の前で何度も聞いているので、いつも何も見られずに、とても難しい内容の古典や、専門的な内容まで、縦横無尽に駆使してお話しされるの知っています。
読んだ本だけではなく人から聞いたお話も、大事な内容はそのまま再現できるほど明瞭に記憶しておられます。その知識を自在に使いこなして、とても興味深く、内容の濃いオリジナルなお話をされるのでした。
その実力は、どうやっても誤摩化しようがないものです。僕は、ワールドメイトの深見先生ほど博識で、思考の豊かな人を、他に知りません。
僕のような知識の足りない人間、思考力の乏しい人間ならずとも、どうにかして、たとえその100分の1でも身につけらられないものだろうか、と思いたくもなります。
実は読書法にその秘密の一端があることを、ワールドメイト会員にお話ししてくださいました。それは、いまだかつて聞いたことがない、誰もやったことがない方法でした。深見東州先生の万能の天才性の一端は、こんなところにもあると思えるものでした。
読書は自分の考え方をつくるためのヒント
ワールドメイトで聞いた深見東州先生の読書法がとてもユニークなので、その内容について書こうと思いますが、その前提として、深見東州先生が読書に関して話された言葉を紹介します。これは、実際に僕がワールドメイトで聞いた内容だったり、著作に書かれている内容だったりするものです。これだけでも、読書をする上での貴重なヒントになるかと思います。
「本を読んだあとには、全て忘れてしまう。しかし、20年経っても、必要なときになるとスラスラとそのまま出て来る。こうやって出て来る知識が本当に必要な知識である。」
「膨大な知識がある人はいるが、ほとんどは不要な知識である場合が多い。余計な知識は忘れるという努力が大事であり、余計な知識があると判断力を失ってしまう。」
「優れた感性や咀嚼力がある人に知識がはいったら、何倍にも応用することができるが、知識が入るだけでは、砂漠の上に落ちた種が実らないのと同じで何もならない。読んだ人の中身次第ということになる。」
「興味があり、関心がある本を読むと、「ほお、そうか」と思ったことは全部頭にいる。吸収力は、興味と関心を持つところから始まる。まずは強い興味と関心を持って読めば、知識を自分の物にできる。」
「読書は寸暇を惜しんでするものだ。」
「本は、読解しなければならないと思ってる人が多いが、自分の独自な物の考え方、自分なりの見解をつくっていくためのヒントでしかない。どんなに読解できたとしても、自分の考え方ができなければ意味が無い。」
「とりあえず、なんでもいいから、最初は1000冊の本を読む。分厚い本でなくていいから、薄い本でいい。そうやって、1000冊読むと、その組み合わせで、オリジナルなものが出て来る。」
これらはほんの一部ですが、とりあえず思いついたものから書いてみました。多少、文言やニュアンスが違ってるかもしれませんが、そこはご容赦ください。
実は最初にもふれたように、ワールドメイト会員に対して話された究極の読書法というものがあります。数時間におよぶ秘伝と呼べる内容のお話です。ここで全ては紹介できませんが、著作でも公開されている部分にかぎり、一部を紹介することにしましょう。

深見東州先生の驚異の読書法
先ほど、ワールドメイトで聞いた深見東州先生の読書に関する言葉を書きましたが、意味がわからないものもあったと思います。
たとえば読んだら全部内容を忘れると言われても、ふつうはその逆をやるのではないかと思います。暗記するか、忘れないような工夫をする努力をすると思います。多くの人はそういう読書をしていると思います。
ところが深見東州先生の場合、先ほども書いたように、講演などでも何も見ないで難しい内容の引用を平気でされます。そこからオリジナルな素晴らしいお話につながっていきます。
つまり必要なときになると、必要な内容が、何年も前に読んだ本の記憶から引っぱり出されて、それらを組み合わせ、応用し、発展させ、だれも気がつかなかった、だれも思いつかなかった思考内容で、お話しをされるという感じです。
ですので、「この人はなんと膨大な知識、情報を記憶してあるのだろう」と皆感じるわけです。たしかにものすごい知識量なのですが、実はふだんは忘れていて、必要なときになったら自然とでてくるのだそうです。
とても簡単に書いていますが、これは実にすごいことだと思いませんか。どうやったら、そんなことができるのでしょうか。
実はその秘密は、守護霊さんや神仏にあるそうです。深見東州先生は読書をされる前に、必ずある短い祈りをされるそうです。その祈りこそがポイントであり、それによってすぐにではありませんが、だんだんそういうことができるようになっていくそうです。
しかし、簡単そうで簡単ではない内容であり、文章で説明してもできるようになるとは思えないので、残念ですがそれ以上のことは書けません。
もうひとつつけ加えますが、深見東州先生は膨大で難解な古典などを読む時、どこが一番大事なポイントなのか、あるいはその本の著者は何がいいたいのか、読む前に閃いて、ある程度わかってしまわれるようです。
だから効率よく本が読めるし、正しく読解できるので、正しい理解ができるのでしょう。結論が先にわかっていて、それを確認するために本を読むと言う感じなのかもしれません。
ここまでくると深見東州先生は、人間とはおもえないような気がしてきますが、確かに普通の人ではないと思います。著作や講演会などでは、読む相手、聞く相手のレベルに合わせて、分かりやすく書かれたり話されたりしていますが、本当はそんなものではなく、学者のように緻密で専門的な難しい話もいくらでもできる人なのです。
それから深見東州先生に聞いたり相談すると、かなり困難なものでも解決策が出てきて解決していくと言われます。小さな問題でしたら、アドバイスを実行すれば解決し、大きな問題は、解決に時間がかかるかもしれませんが、やはり解決に向かいます。どうしても解決できない問題は、発想を変えることで、別な形で納得がいくようにされます。
これはワールドメイト会員にだけではなく、現在では、さまざまな公益活動においても活かされていると思います。深見東州先生に関わる人はなぜかうまくいく、深見東州先生がされることはなぜかいい結果につながる、という事実に多くの人が気づきはじめています。
ちなみにワールドメイト会員になってから、僕は180度人生が変わりました。もちろん良いほうにです。そういう人がたくさんワールドメイト会員にはいます。
深見東州先生の思考力の磨き方
ある専門家が書いた本の内容ですが、「思考を深くするためには、自分自身へ問いかける訓練が良い」と書かれていました。
たとえばあるテーマに対して、「自分だったらどう解決するか?」「あの人だったら、どう考えるだろうか」「昔の人はどう考えただろうか」などと問いかけて、考えていくのだそうです。問いかけ方にもコツがいりますが、その問いに対しひとつひとつ考えていくと、たしかに思考が拡がり深まることでしょう。
普段の何気ない会話のなかでも、相手の話しに思わず「なるほど」と思うことが、たまにあるかと思います。「そういう考え方があるのか」と、感心したりすることがあります。そういう機会を持つことも、思考を深くするチャンスかもしれません。
ワールドメイトで深見東州先生のお話を聞いている時も、実は、そういう機会の一つになっています。深見先生のお話しは実にわかりやすく、論理明快で説得力があるといつも感じるのですが、「どうしたら深見先生のように、相手を納得させ、感心させるお話ができるのだろうか」と、よく考えます。
一言でいうと「思考の深さ」がまったくちがうと思います。たとえば深見東州先生のお話には、思いつかないような説得力のある喩えが、ぽんぽん飛び出します。普通、ひとつだけでも思いつかないのに、二つ三つ四つと、たたみかけるように出てきます。
知識の裏打ちされた深い理解があるからこそ出てくるのでしょうけど、しかしいくら知識があっても、それだけであんな発想豊かな、独創的な思考になって出てくるとは思えません。
先ほど「本は、自分の独自な物の考え方、自分なりの見解をつくっていくためのヒントでしかない」と書きましたが、知識を応用する力、活用する力が必要になってくると思います。その考える力、思考力があって、はじめて人を唸らせるようなお話ができるようになるのでしょう。
先ほどの専門家が書いた本の内容には、思考力を身につけるための問いかけは、空間軸、時間軸、人の軸で拡げていくと書かれていました。空間軸とは、身の回りのことから、友人関係、会社関係、日本、世界という感じで外へ外へと拡げていきます。時間軸とは、過去、現在。未来に広げていきます。人の軸とは、自分自身について掘り下げていくのだそうです。
詳細な例は省きますが、これを読んで、ワールドメイトで聞いた深見東州先生のやりかたに似てるなと思いました。実は深見東州先生は、次々と問いかけをされる問いかけの名人でもあります。どういう感じで問いかけられるのかというと、少なくとも上に書いた3つの軸の要素は、すべて網羅されていました。具体的な問いかけ方の実例は割愛しますが、さらに、他の要素もあったと思います。
ただし深見東州先生が普通の人と決定的に違うところは、それを目に見えない神仏に問いかけられるところでしょうか。普通の人は、自分自身に対して問いかけ、自分の力で苦労して考え、少しづつ思考が深まっていくと思います。
ところが深見先生の場合は、まず神仏や守護霊に問いかけ、自力で考えるだけでなく、他力を使われているのです。どうかすると「問いかけ」そのものも、他力を利用して問いかけられているようです。しかも、その問いかけの数が半端ではないそうです。
その結果、普通じゃ思いつかないような考え方、的を得た説得力のある内容が、時間差はあるようですが、やがてかえってくるようです。このような問いかけを徹底してされてきたから、今のような万能の人になられたのでしょう。もちろん膨大な読書によるインプットと実践が同時に必要ですが。
内容が複雑で難しい問題であればあるほど、高度な知識や広範な知識がなければ問いかけすら浮かばないし、まともにはできません。また、専門的で高度な思考を理解できないと、それに見合うレベルのものしか答えが得られませんから、低いレベルの思考に陥ってしまいます。やはり膨大な勉強量が前提として必要なのは言うまでもないでしょう。

考えるより先に、体で実践できない学校頭とは
膨大な読書から得られる知識をインプットし、それをヒントに自分自身の考え方、思考、見識を見につけていくことを書いてきました。
実は僕がワールドメイトで学んだ読書の仕方も思考の磨き方も、聞いたことがないようなオリジナルなものでしたが、ここから先は、もっと根源的な話へと向かっていきます。ある意味で一生かかっても学びきれない、体得できないものかもしれませんが、ワールドメイトの本質的な神学びに通じるものなので、とにかく書けるところまで書いてみます。
まずはじめに何を学んだかと言うと、考えるより先に、体で実践するということでした。
正確には実践しながら、学んでいくという感じでしょうか。ワールドメイトでは、道学一体ともいいますが、それに対して学校頭という言葉もワールドメイトではじめて聞きました。
これは、聞きなれない言葉だと思いますが、たとえば、「最近の社会人は指示待ち族が多い」とか、そういうことを聞いたりします。指示待ち族とは、指示されないとやらない人たちという意味ですが、必ずしも悪いわけではなく、支持されたことをきちっとやるのであれば、それはそれで重宝されると思います。とくに工場とか、生産ラインが確立してるようなところでは、指示されたことをその通りにやる人が、かえって良いのではないでしょうか。
しかし、世の中は、そういう指示を待つだけではやっていけない場面の方が、実際は多いと思います。そういうときでも、この学校頭の人たちは、指示が無いと動けない人なのです。
学校の成績は優秀だったけど、それは与えられた問題を、素早く理解して素早く解いていくと言う能力だったわけです。だから、そういうタイプの問題として、指示を与えられないと、どうしていいのかわからないのです。僕も、そういうタイプに近いものでした。ただ成績は優秀ではありませんでしたが・・。
それで社会人になると、どうしても自分で考えてやる力がないと、指示を待つだけではおのずから限界にぶち当たり、能力も伸びていきません。
ものすごく優秀な上司の元で鍛えられればいいですが、平凡な上司や先輩に指示され、それをやっているだけでは、おそらくぱっとしないまま終わってしまうでしょう。せっかくそれなりの学校で、それなりに優秀な成績だったとしても、それだけでは通用しないのが社会の厳しさなのでした。
ワールドメイトで、すべてのことに通ずる道を学ぶ
学歴が無くても、社会で成功している人は世の中にたくさんいます。おそらく、そういう人は学校頭ではなく、体でぶつかって成功するコツをつかみとってきたのでしょう。そういう自分の考え、自分の行動で実践してきた人の方が、社会では通用する場合が多いと言われていました。
学生のころまでは学歴があり成績が優秀であるにこしたことはないと、僕は思っていましたが、世の中に出ると、ワールドメイトで聞いたように、けっしてそうとばかりはいえない場面が多々あるのが事実でした。
実際に僕の周りを見ても、父からして学歴はありませんが、裸一貫から従業員100人以上いるような会社をつくりました。それに比べると、僕の方が学歴はありますが、社会で逞しく生き抜いていく力は及ばないと感じています。
そして、これから書く、僕がワールドメイトで学んでいる全てに通じる道というものは、学校頭では全く通用しないものでした。僕のように、なんでもすぐに頭で考えてしまうようでは、理屈ばかりが先に立って、いつまでも本物を体得できないのです。
たとえば恋愛を例にとると、学歴が高く頭がいい人は、それだけでモテそうですが、実際はそうとばかりはいえません。すごく優秀で心優しい人なのに、女性からは「とってもいい人なんだけど」で終わってしまう人が実際に多くいます。
そうかと思うと、優秀というわけでもないし、性格もよくないし、顔やスタイルもたいしたことないのに、素敵な女性を恋人にしてる人がいます。そういう人は、少なくとも女性の心をつかむことに関しては、コツをつかんでいるわけです。だから周りが羨むような女性を、口説きおとすことができるのでしょう。
ワールドメイトは、別に恋愛の指南をするところではありません。もう少し大きなところから大道を学ぶところです。ただ、その道とは、恋愛にも、仕事にも、すべてのことに通じる道なのでした。
王陽明の「知行合一」の教えとは
勉強頭では、必ずしも社会で通用するとは限らないということを書きましたが、では、社会で通用するには、どのような頭の使い方をすれば良いのでしょうか。実際にワールドメイトの深見先生は、どのような頭の使い方をされているのでしょうか。
だんだん核心にはいっていきますが、なかなか文章でうまく言い表せる自信がありません。いや、それ以前の問題で、私自身が体得していないため、うまく説明できないのかもしれません。
それでも少しは参考になることもあるかもしれませんので、私の体験も交えてわかるところまで書いてみようと思います。
まず、ワールドメイトでよくお話しされる、王陽明の「知行合一」の教えについて少し紹介します。
「知行合一」とは、知識と行動は同一でなければならないと、一般的には解釈されています。わかったような、わからないような説明ですが、王陽明は朱子学の、万物の理を極めてから実践する「知先行後」の思想を批判して、「行のない知はない。知は行の始めであり、行は知の始まりである」と主張したそうです。
単純に言うと、「知と行は切り離せるものではない。知行は合一していなければならない」と言ってるのです。その王陽明の言う「知」とは、「良知」と言う呼び方で説明しています。良知とは、ワールドメイト的にいうと、過去、現在、未来を知っている私たちの本質である魂から出て来る知恵、とでも言えば良いのでしょうか。
だから王陽明の言う「良知をいたす」とは、本来の自分の内から出てくる魂の高まりに素直に行動すれば、すべてツボにはまって上手くいくのだということでしょう。しかし、それが上手くいかないのは、人間の欲望である「人欲」がそれを覆っているからであり、人欲を無くさなければ良知は出てこないと言っているのです。
たとえば私は、ワールドメイトに入会してから、ときどき「これをやらなければ」という、ふつふつとした思いが湧きあがってくることがあります。それは、理屈ではなく心の底から「そうしなければ」という衝動にかられるのです。
そして迷うこと無く、次の瞬間にはそのための行動に移ってるのです。あるいは、いったん冷静になって我が身をふり返りますが、やはり何度も同じ気持ちになるので、それを実行します。
すると、なぜか奇跡的に上手くいったり、不可能に思えていたのにできたりするのです。少なくとも最終的には「これで良かった」と思える結果になります。このように、思ったと同時に、考えたと同時に行動が伴うことがあります。
ただ、それが王陽明の言う「知行合一」にあたるかどうかはわかりません。おそらくは違うでしょう。

先ほど「知行合一」を実践しようとすると、人欲を無くさなければならないと書きました。すると、現代においては、たとえば企業家がもし全く人欲を無くしてしまうなら、人もの金を集めることもできず、破綻してしまうことでしょう。
それでは自分も従業員も幸福にはなりませんので、ワールドメイトでは、弘法大師が言う欲望を否定せず、コントロールして活かせるやり方を進められています。「知行合一」のように欲望を否定する生き方は、現代を逞しく生きていく上ではそぐわない部分が多いのでしょう。神道は現実の幸福を大事にしますから、それとも相容れなくなると思います。
神仏を信仰する人間としては、王陽明の言う「良知」とは、禅宗で言うところの悟りであり、自己本来の面目にあたるものですから、目指すべき部分があるとは思います。
ただ、それを中心にしてしまうと、現実社会において人欲を無くす生き様を目指すことになりますので、会社経営などは成り立ちませんし、一般人でも、非常に窮屈な生き方になりますね。
惟神の道においては、知行合一の道も必要ですが、より弘法大師が言う欲望をコントロールし、エネルギーに変えていく道を中心にするのが良いと言うことです。それについてはまた別な機会に書きたいと思います。
「知行合一」と「道学一体」の違い
それでワールドメイトの深見東州先生は、王陽明の言う「知行合一」も、弘法大師の説かれる道も、全て学んで体得されています。かつ超えて、さらに上を行く「神人合一」の道を極めようとされています。
2013年頃から世間でも大きく取り上げられてきた様々な深見東州先生の公益活動や音楽イベントなどは、すべての行事が大成功でした。ふつうなら不可能じゃないかと思うようなものもあり、かつ、同時並行で複数のイベントを行うことも多く、にもかかわらず、軽々と成功されているように見えました。
取材するマスコミや関係者は「大きな組織が年に一回できるようなことを、毎月のように行っている」と驚いているそうです。
冷静に考えれば考えるほど、人間の知恵とは思えない、人間わざとは思えないようなことの連続でした。だから、針の穴をラクダが通るよりも難しいといわれる「神人合一の道」を体得されているとしか思えないのです。
今回、ワールドメイトで何を学ぶのかと言うテーマで書いてきましたが、最後に結論として言いたいのは、神人合一の道を学ぶ、あるいはワールドメイトでいうご神業を学ぶやり方についてです。
それを一言で言うなら「道学一体」になります。これは先ほどの「知行合一」と同じ意味かと間違いやすいのですが、全く意味が異なります。
深見東州先生は、学ぶと言うのは、なんでも裸でぶつかっていき、試行錯誤しながら、そこから実際はどうなのかを、肌で実感しながら学びとる、会得するものと言われていました。それが、ワールドメイトでいうところの神学びのやり方になります。
しかし体験だけでは、その学んだことを次に活かしたり、あるいは人に教えることもできません。だから、深見東州先生は、理論と知識も併せ持つだけの研鑽も同時にされてきました。
何事も「道学一体」であるのが、大道であり、神の道の実践であると確信して、20代からずっと実行されてきたそうです。
先ほど書いた「知行合一」と、この「道学一体」は、まったく異なる意味合いのものであることがわかると思います。
生活における実践が大事
深見東州先生は、生活修行が大事だという話をよくされてきました。ワールドメイトにおいてはとても重要なことなので、書いておきたいと思います。
なにも大げさなものではなく、日常生活における、たとえばトイレ掃除、洗濯、料理、掃除、後片付け、整理整頓、など特別なものではありません。それらを徹底してやっていくところから始まります。
「なんだ、そんなことなら、とっくにやってるよ」と言われそうですが、ただやればいいというものではありません。本当に、そういうものが完璧にできる人は、気が利きますし、合理的であり、理屈より先に体が動いて、生活の知恵があるはずです。
そのような雑用をたくさんやっていると、学校頭の人も、だんだん理屈で考えなくなるようです。勉強頭がつぶされていくそうです。もちろん、体行実践だけでは経験主義に陥るので、寸暇を惜しんで本も読んで学ぶことも忘れてはいけませんが。
僕は、ワールドメイトに入会して20年以上経ちますが、今でも、ご奉仕という体行を実践しています。ワールドメイトに入会して、変わったことのひとつとして、奉仕活動をするようになったことがあげられます。さっき書いたような、それほど特別なことではありません。掃除とか、軽作業がほとんどです。
そういうことを飽きること無く、面倒くさいなと思うことも無く、喜びとして黙々と続けることは簡単そうで簡単ではありませんでした。やるやらないは最終的に自分の意志ですから、嫌ならやらない自由があります。でも、やらなければ、おそらく人生もかわりばえしなかったことでしょう。
奉仕活動は、親しい仲間もたくさんできるので、仲間同士で助け合い、誘いあったり、いろいろ楽しいことやありがたいこともたくさんあります。
そうやって長い間継続してやってきた結果、それが僕の人生でどれほど価値あるものに変わってきたのかは、とうてい計り知れないものがあります。「継続は力なり」ということも感じます。
先ほど書いたような、内から出てくるような高まりとか、そういうものを感じるようになったのも、そういう実践のおかげだと思います。何より、以前よりも気が回るようになり、この場合は、こうしたらうまくいくのでは、というのが自然とわかってくるようになりました。
深見東州先生は、学校頭でも通用する組織や社会もあるけども、通用しないところも多いし、少なくとも神の道では通用しないですよと言われていました。僕も、どれだけ学校頭から脱皮し、社会の役に立つ人間になれたかどうかは自信ありませんが、引き続きワールドメイトで学んで、生活修行を実践していきたいと思っています。

道学一体がワールドメイトの学びの基本
僕はワールドメイトで、深見東州先生からいろいろなことを教えていただきました。ワールドメイトは宗教団体ですから、まず、信仰や神さまに関することをたくさん学びます。普遍的な宗教の教えの部分はそれほど違うわけではありませんが、多くは、ワールドメイトでしか聞けない内容だと思います。
そして、これまでに書いてきた、「学校頭を無くす」とか、「生活修行」もそうですが、ワールドメイトでは、現実社会の生活や仕事に直結した役に立つことを、たくさん教えられます。生活に役に立たない教えは言われません。
そのような現実社会で役に立つような、あらゆる教え、生活の知恵が神様の教えでもあり、さらにその先に神の叡智があると言われていました。
深見先生から教えていただく内容は素晴らしい内容で、話しを聞いて興味を持つ人も多くいます。深刻な悩みを抱えている人はもちろん、人生や神さまのことを知りたい人など、求めていた答えを見つけられるかもしれません。また、とくに悩みもないし人生をエンジョイしている人でも、興味を持つ人は多くいます。
しかし一つだけ残念なのは、せっかくワールドメイトに入会し、素晴らしいお話を聞いても、「なるほど」と頭で理解するだけで終わって、実行まではいかない人もいることです。僕もその一人なので偉そうなことは言えません。すべて実行したわけではありませんからね。
良い話を聞いても、それを行動に移さなければ宝の持ち腐れになります。それでは、その人の人生もさほど変わらないでしょう。人生が良くならないことを、人のせいのように言う人もいるのですが、自分自身がまず心の底から変わる必要がありますね。
ワールドメイトでは、心が変わるくらいに改心すると、口で言うことも変わり、行いも変わると言われます。そうじゃなければ、その改心は本物ではないのでした。
ワールドメイトで学んだら、学んだことを自分の生活の中でどのように活かすのか、また、応用するのかを考えて、実行した方が良いのは言うまでもありません。
深見東州先生のお話は、頭よりも、心が動かされるようなお話なので、聞いた瞬間に気持ちが前向きになり、行動が変わる人も多いです。そうやって実行し、体験し、経験を積むことが大切になりますね。
並行して、知識や情報やものの考え方なども学んでいると、素晴らしい生活の知恵が出てくるし、そこに神様の叡智もそこに現れてくるのでしょう。
ワールドメイトで言う「道学一体」で研鑽を積むことが、ワールドメイトにおける神学びであり、ワールドメイトの学びの基本なのでした。
ワールドメイトで学ぶのであれば・・
これで最後にしますが、深見東州先生が言われていました。宗教というのは、教えを聞いただけでわかった気になりやすいとのことです。
神さまの道も、教えを学べばわかった気になりがちです。しかしそれではダメであり、周りの人からも「人間が変わりましたね」言われるくらいならなければ、少なくとも本物とはいえないと思います。
芸術家も同じですね。知識だけはたくさんあっても、実際に歌ったり、弾いたり、あるいは描いたりしたものが素晴らしくなければ、誰も本物とは思いません。
スポーツもまったく同じで、やはり体験を積み、経験を重ねることで上手くなっていくわけです。その過程で理論や法則や知識を持つことで、毎回良い結果になったり、芸術でしたら毎回素晴らしくなるそうです。
スポーツや芸術の世界は、結果や作品という現実があるのでわかりやすいですね。しかし神さまの道は、はっきりとした形になって出てきにくいです。晴らしい神さまのお話ができる人が本物とは限らないですからね。
それより神さまの知識があるのなら、それを実践して現実に素晴らしいことができるとか、素晴らしい行いを継続しているとか、素晴らしい人間になるとか、そういうものに出なければ、少なくとも本物とは言えないと思います。
ワールドメイトにいると、そこまでできるように導いてくださると思います。数年、会員として道学一体で学んでいけば、必ず大きな証を体験することができます。自らの祈りと行いで、自分も周りも良い方に変えることができるようになっていくと思います。
深見東州先生のようなスケールの大きいことはできなくても、少なくとも身近なまわりの人くらいは、幸せにできるようになれると思います。
ワールドメイトで学んでいるのであれば、最低でも、そこまではいきたいものですね。その気さえあれば、誰でもそうなれると思います。












