
高齢になればなるほど大事になること

日本では65~74歳を前期高齢者、75歳以上は後期高齢者と定義していますが、実年齢と見かけの年齢が、人によって20歳から30歳くらい違って見えるようになる年齢でもありますね。
日本は高齢化社会を世界で最も早く迎えたと言われ、さまざまな問題が起きています。ただ、その多くは高齢者になっても、元気でいることができれば、かなり解決できるのではないかと思います。
元気で病気をしなければ、高齢者に費やす医療負担も少なくて済みます。働き手が減る日本において、高齢者になっても元気に働くことができる人が増えると、業種にもよりますが、人材確保の面からプラスになるでしょう。
何より、本人もいつまでも社会から必要とされる存在であれば、それは幸せではないかと思います。
そんなことからか、元気な高齢者になるための特徴について書かれたものなど、時々目につきますよね。
バランスの良い食事をとっている。よく歩くなど運動をしている。仕事や趣味を持っている。積極的でポジティブな思考を持っている。などなど、さまざまな事柄が書かれていますね。
そのどれもが、その通りなんだろうなと思います。
深見東州先生の3つのエネルギーの源
一般的に老いてくると、気力が萎えてきたり、抑うつ状態になったりするようです。あるいは男性と女性でも違いがあるようですが、妙に怒りっぽくなったりするケースもあるようです。

もちろん健康状態が重要ですが、気力の衰えや、抑うつ状態になると、これもまずいなと思います。健康は、ある程度気をつけていけば、そこそこ保てるかもしれませんが、気力が湧かない、何もやる気がしない、うつ状態になってしまうと、これは問題ですね。
深見東州先生は、気力の低下に打ち勝つために筋力を鍛えたりされているようです。たしかに筋トレとメンタル面の健康は、医学的にも正しいようですので、やりすぎない程度に鍛えるのはありなのでしょうね。
ところで深見東州先生の場合、まもなく定義上の後期高齢者と言われる年齢になられます。しかしそれに反比例するかの如く、大変エネルギッシュな日々を送られています。
バイタリティの塊の30歳の男性と比べたとしても、遜色ない若さを保たれていると言えます。
なぜ、無尽蔵にエネルギーが湧いてくるのか。深見東州先生のことをよく知る人ほど驚くと同時に、なぜだろうという疑問を持つようです。
数年前の深見東州バースデー個展の挨拶で、その疑問に対して話されたていたことがありました。概ね、以下のような内容でした。
私はこうありたいと、強い使命感、強い志をずっと持って生きています。それがエネルギーになります。
己の欲望のために生きていたら、それが満たされたら終わりです。世のため人のために、みんなの役に立つために生きていかなければと思っています。そうすれば神仏も周りの人も応援してくれます。
常に進歩向上することを考えています。進歩向上のために学び続け、精進努力して頑張ることを忘れずに生きています。そうすると、次々にやる気と課題が出てきます。それがエネルギーです。
この三点が私のエネルギーの源です。人々が幸せになり、社会が良くなることが重要です。有意義と思うから協力するのであって、見返りは決して求めません。

このときは親交がある政治家さん、芸術文化関連の友人、知人、関係者が多く来場し、そのため常識的で現実に即した表現になっていたと思います。
ワールドメイト会員の僕からすると、その3つのエネルギーの源にプラスして、あるいはその3つのことの大前提となるものがあると思っています。
それを理解しないと、深見東州先生の究極のエネルギーの源はわからないと思います。
白隠や臨済の生き様
深見東州先生は、白隠や臨済について言及されることがよくあります。白隠は83歳まで生きた、その当時としては大変な長寿でしたが、70代が最も黄金期だったそうです。
亡くなる時まで弟子を育て続け、勇猛の心を失わず活発に活動し、最後を迎えたと言われています。
そんな生き様を深見東州先生も目指していると言われていました。70代からがピークであり、最後の最後まで人材を育成し、白隠のように死んでいくと言われていたと思います。
人材の育成というのは、これは神様がもっともやってほしいことであり、そのことを理解されているからこそ、若い頃から、自分の時間と労力を使って多くの人を育て、指導されてこられたのでしょう。
僕もその一人に入っていると思いたいところですが、とにかく人材の育成というのは虚しい作業でもあり、多くの人は思ったようには育ちません。
100人育てても、3人が立派になれば良い方だと言われていました。もちろん、この3人の立派というレベルは非常に高いものを指しています。だから、残り97人の人たちも、世間的なレベルで言えば、かなり立派になっている人も多いと思います。
それで、自分の力で自分が立派になったと勘違いし、己の好きな道をいくようになる人もいるそうです。それでもその人が幸せになれば良いと、深見東州先生は言われますが、さぞ無念であり、何のために時間と労力を使ってきて育ててきたのだろうと、虚しい気持ちになられたこともあるかと思います。
しかし、白隠や臨済もそうであったように、そんな虚しさや、迷いや、雑念などが湧いてこないほど、禅の究極である刻々の只今に生きて、人を育て続けていかれています。

迎えず、送らず、刻々のただいまに生きる
年をとると誰でも肉体が衰えます。癌や脳梗塞やアルツハイマーなど病気になる心配も増えます。さらにやる気が減退したりと、さまざまなマイナス面が出てくるでしょう。
年をとればとるほど、病気になったらどうしようとか、何かやるのも面倒くさいとか、若い頃にもっとああすればよかったのにと過去を悔やんだり、そんな過去の悔やみ、未来への不安が次々と、たくさん出てくることでしょう。
しかしそんなさまざまな心配事や雑念妄想にとらわれることなく、迎えず送らずの精神で、刻々の只今に生き、人を育てていく生き様を貫かれてきました。おそらく亡くなるその時まで、深見東州先生のそれは続くのでしょう。
誰しも死を迎えます。病気になったときは病気になった時であり、死ぬ時は死ぬんだと。そんな心配をすることで、目前のことに手がつかなくなったり、十分取り組めないようではいけないということです。もちろん病気にならないための最善の努力はされます。
そうでなくては、深見東州先生の場合、神人合一しているとは言えないと言われていました。神人合一とは、一般には聞きなれない言葉ですが、刻々の只今に生きていないと神人合一はできないと言われています。
ただいま、ただいまに、目の前のやるべきことに没入している状態のことを指していますが、そんな時は神々や守護霊が応援し、人と一緒になって活動している状態になる、と思えば良いと思います。

年をとればとるほど大事になるもの
目前のことに没入し、我を忘れて取り組んだ経験がある人ならわかると思いますが、そんな時には不安も心配も年齢のことも忘れて、やるべきことに没入しています。そんな時、不思議なほど良い閃きがあったり、自分の力以上のことができたりするものです。
僕もワールドメイトに入会して、何度もそのような体験をしてきました。
神人合一と言っても、人によってレベルの差はありますが、深見東州先生の場合は、それがハイレベルの所業につながり、奇跡のような体験として、この世的に言うと大成功という形になって現れます。もしも失敗に見えても、その後の成功につながっていきます。
だから、あれだけさまざまな分野において、そのすべてがハイレベルで活動できる離れわざが可能になるわけですね。このような生き様を理解しないと、深見東州先生のあのバイタリティや底なしのエネルギーは理解できないと思います。
実は深見東州先生は、若い頃から、そのことが当たり前のようにできていました。しかし、年をとってもそれができなければ、それは神人合一とは言えないと言われています。
禅宗では、悟った後の悟後の修行が非常に大事だということですが、それとおなじ意味なのだろうと思います。
「刻々のただいまに生きる」というのは神人合一の神法であり、それを深く悟っている深見東州先生にとって、年をとったとしてもそれができることが、というより年をとればとるほど、それがますます大事になってくるわけです。

と、まるで人ごとのように説明してきましたが、このことは自分自身のこととして受け取り、少しでも実践できるようになりたいと、僕も思っているわけです。
僕も高齢者と言われる年齢に近づいてきましたし・・イヤだなぁ。そこを気をつけていかないと、これまでワールドメイトで研鑽してきたことが、なんだったんだろうとなりますからね。やるしかないですね。