
成功法則を学んでも成功しない理由

本屋に立ち寄ると、成功するための様々な種類の指南書、自己啓発本などが並んでいますね。それだけ多くの人の関心を惹くテーマなので、それに類する書籍が次から次へと出版されています。
宣伝文句には、成功法則を実行した人たちの体験談が紹介されています。その本に書かれていることを実行して、成功した人がいるのでしょう。一方では、そのような本をいくら読んで、多少なりとも実行してみたものの、さっぱりと成果を感じることができない人もたくさんいると思います。そんな人の方が圧倒的に多いことに気がついている人も多いと思います。
なぜそうなるのか、その原因は本の内容に問題がある場合もあるでしょう。しかし、1番の原因は徳と刧の考え方が抜けていたからだと、ワールドメイトに入会して理解できるようになりました。
前回、少し触れた自力運や他力運にしても、徳のあるなしによって、実は大きく変わってくるわけです。徳と刧の関係を正しく理解することが、成果につながる根本的なヒントになると思います。

深見東州先生の書籍、また、ワールドメイトでのお話においても、もっとも重要なテーマの一つとして出てくるのが、徳と刧の考え方です。どのようにすると徳が積め、刧を抹消できるかについて、具体的に詳しく聞くことができました。
本来はとても難解な内容だと思いますが、さまざまな実例、古典、既存の宗教の教えも交え、誰でもわかるとまではいかなくとも、かなり平易な言葉で説かれてきました。その膨大な内容をここで再現することは不可能です。
それでもほんの概略の一端だけでも、書いておこうと思います。ある意味、非常に重いテーマでもあるので、さらりと紹介するに止めます。
運・不運をきめる3つの要素
運が良い人、悪い人、どちらともいえない人など、それこそ人の数だけ、いろんなケースがありますが、運とは、大きく3つの要素から成り立っていると言えます。
まず、本人がこれまで行ってきた努力の結果です。本人の今の境地も含みます。
次が、その人が前世において、どのようなタネを撒いてきたのかです。それには良いタネもあれば、悪いタネもあるでしょう。
最後は、その人が生まれた家系からくる、家代々の良い因縁や悪い因縁になります。特にここは複雑で簡単に理解できるものではありませんが、とりあえず、どのような行いをしてきた先祖がいるのかを知ることによって、ある程度の家の因縁がわかることもあります。
運・不運と言っても、お金の運・不運、人間関係の運・不運、仕事の運・不運とか、いろいろな側面が複雑に絡み合っています。運の良し悪しには、その原因に、これら3つの要素が複雑に絡んでいるといえるでしょう。

そもそも徳分が足りない場合は、いくら努力しようとしても、自力運を発揮し、他力運が発動するところまで努力を継続できない人が多いようです。努力しても成果が出ないというより、成果が出るまでの努力の継続ができないようなのです。
そして刧を積んでしまうと、たとえば今世において、お金の問題で他人を不幸にしてしまうと、それが自分自身の金運に、いづれ悪い形で返ってくることになります。
それは前世や家代々の因縁においても同じで、前世で人を苦しめたり、あるいは人を苦しめた先祖がいると、その刧が子孫に、それ相応の不運の形となって現れてくることになります。お金で他人を苦しめた先祖がいると、今世では子孫がお金で苦しむことが多くなったりするようにです。
そのように、刧は本人だけではなく、子孫にも悪い影響を与えるわけです。逆に徳を積むと、子孫にも良い影響が行き渡るわけです。易経にある、「善悪報応のむなしからぬことは、古人聖賢の通義なり。易に、積善の家にはかならず余慶あり、積不善の家にはかならず余殃ありと」は、まさにそのことを言っているわけですね。
実際にはそれほど単純なものではなく、もっと複雑な出方になりますが、そこまで説明するとどこまでも長く、ややこしくなるので割愛します。

刧を清算する2つの方法
そう言われても、今現在の生き方や努力不足によって不運になるのなら納得がいくが、前世とか先祖とかの刧によって不運になるなんて納得がいかない、と言う人も多いでしょう。
前世も先祖のことも、今となってははっきりとはわかりませんし、そんなわからないものから影響を受けるのは理不尽だと思うのも無理もないと思います。そもそもそんな前世の存在や、先祖の刧の仕組みなど信じないという人も多いでしょう。
仮に、徳と刧の説を信じるとしても、いまさら変えようのない前世や先祖の刧を持ち出されても救いようが無いじゃないかと、希望を失ってしまう人もいると思います。ですので、中途半端な理解や説明では、救いのない重いテーマになりかねないので、これまでは触れてきませんでした。

実はしっかりと救いもあるわけです。それでなければ、信じない方がまだマシだと言えますからね。
ワールドメイトで聞いた、不運の元になる悪因縁や刧を解消する方法には、大きく2つありました。一つは、すでに不運になっている人の場合、たとえば病気やお金の苦労、嫌な人間関係や好きでもない仕事につくことなどによる苦しみなどがそうですが、着実に刧の解消になっているそうです。
刧や悪因縁は、その種類や大きさによって、不運の出方も、不運の大きさも、不運が継続される長さも違いますので、どんな形でいつまで続くのか、本人にはわからないのが不安かもしれませんが。
でも、実際にある時を境に、急に運が向いてきたという人は大勢います。そんな話はよく聞きます。大きな不運を経験すると、一気に解消されていくケースもあるようです。だから、いずれは刧も晴れていくものだと、信じることは大事です。
ただし、不運によってせっかく過去の刧が精算されているのに、その不運を呪ったり、周囲を憎んだりすると、新たな不幸のタネを作ることになる可能性があることは知っておいた方が良いですね。
苦しみを感謝できるくらいになると一番良いのかもしれませんが、そのためには、徳と刧の仕組みの正しい理解がないと難しいでしょう。

もう一つの解消の方法は、徳を積極的に積むことです。その方が、単に不運によって刧が清算される日をただただ待ち続けるよりも、より早く良い結果が出てくることになるでしょう。
それでも刧による苦しみは避けては通れませんが、徳分が積まれてくると、一気に良い方向に向かっていくことを実感できるようになるでしょう。
徳を積む3つのやり方
いろんな方が書いてますが、体施・物施・法施と言う、主に3つの方法で徳は積めるとのことです。
徳は、人に益する行いで積むことができますが、体を使って人のために役に立つ施しをするのが体施、お金や物品で困っている人に施しをするのが物施、そして、神仏や真理の道を説くことによる施しが法施になります。
有名人や企業などが、災害の時にボランティアとして片付けや炊き出しをしたり、寄付をしたりするのも、体施・物施になります。もちろん有名人だけでなく、いろんな方がそのような行為をしていますよね。
有名人がすると売名行為などと言われますが、目的が売名では困りますね。また、困っている人のために恵んでやるという、上から目線のような尊大な気持ちで行ってもあまり徳分にはならないそうです。
やはり、人々に対する慈悲の心や愛の情感からくる行いでなければ、徳分にはなりにくいわけですね。実際にやってみると、わかってくると思います。

運が良い人は感謝に生きている
神仏に喜捨する物施に関しては、実行するのは簡単そうですが、意外と難しい面もあります。たとえば数百円の少ないお金を、この程度でいいだろうと、軽い気持ちでしてしまうことがよくあります。それが大きな金額になると、これだけするのだから、神仏から証や功徳もしっかりといただきたいと思ってしまうこともります。
しかし、このような気持ちでお玉串をしても、あまり徳分にはならないようです。証も当然出にくくなりますね。神仏に対する真心がこもってませんし、人々に対する愛念も足りてないと思います。させていただいているという謙虚な姿勢や、感謝の気持ちも感じられませんしね。
お布施の金額の目安としては、少なすぎると侮りますし、多すぎると執着心が出てきます。そこが難しいところなので、少し痛いかなというくらいの金額がよいとされています。

それから、本当に運が良い人は、感謝の気持ちに生きていると思います。逆に運が悪い人は怨嗟の中に生きている人も多いでしょう。
ですので、できる限り、神様や人々のためにどうか使ってくださいと言う謙虚な愛の祈りや、そのような機会を下さることへの感謝の気持ちを表し、見返りには固執せずに、寄付やお玉串をするのが良いと思います。
ちなみにワールドメイト会員の毎月の寄付会費(2500円や1200円)は、カンボジアなどの病院で、貧しい人たちの治療費などに使われています。会費と言っても小さな額なので、本来そのような額では、日本ではそれほど物施の徳は積めません。
しかしカンボジアでは、困窮する人の命を救うだけの寄付額になります。同じ金額でも、カンボジアでは価値が大きく違ってくるわけです。このような仕組みを作られたワールドメイトの深見東州先生に対し、そのことを理解している会員は感謝しています。

神社仏閣でも、ワールドメイトでも、御祈願にはいろんな功徳をうたっていますが、感謝の気持ちと愛念の祈りをほとんどにして、こうなりたいという願いばかりが先に立たないようにしています。
具体的に願望を祈ることも必要ですが、執着心が出ないように、最後は神様にお任せするという澄み切った心で寄付するようにしています。けっこう、ここが難しいところではありますが。
ワールドメイト会員には、良い結果が出ないからと言って、神様を冒涜するような人はいないと思いますが、本当に至誠でもって寄付すると、たとえ何も証がなくても、きっと悪いことが起きるところを未然に消して下さったのだろうと思えてきます。
また、何か考えがあり、今ではないのだろうと、前向きな気持ちで捉えることができるものです。最終的には、いつの間にか、自然に良い方向に向かうようになっていると、僕の経験からは言えますね。