
ワールドメイトで聞いた、2人の若者の物語

ワールドメイトでの深見東州先生のお話に、「できるまでやる」というものがあります。
「努力はしているけど、なかなか上手くならない」「これだけやってるけど、営業成績が上がらなくて」などという悩みは、多くの人が抱えるものでしょう。
僕もそうです。そういう時に深見東州先生は、「成功するまでやらないからですよ」と言われることがあります。簡単な言葉ですが、「成功しないのは成功するまでやらないから」「上手にならないのは、上手になるまでやらないから」という意味にとれます。
そうすると、「それができれば苦労はしない。それができないからこそ苦労しているのだ。」また、「やれるまでやれる強い意志がある人はいいが、そうでない私には所詮無理な話だ」という声がかえってきそうです。
深見東州先生は才能があるから、そんなことが言えるのだと思う人もいるかもしれません。

僕のような凡人は、できるまでやらないからできないと言われても、なかなか納得できるものではありませんでした。しかし何度も聞くうちに、その言葉を少しなりとも実行するようになってきました。
「できるまでやる」、そういう気持ちでやるようになると、そうでなかった時と比べて明らかに違うと、だんだん実感するようになりました。
絶対にやれる、やれるまでやる、そう言った強いポジティブな思考や粘りに、成果はというものもついてくるようです。これが事実なのだろうと思えるようになりました。

ところで現実には、いくら努力しても、なかなか成果が出ないものもあると思います。ビジネスでしたら、初めからそのようなものに力は注がないかもしれませんが。
しかし趣味の世界になると、仕事とは違って効率や合理性だけでは割り切れませんので、そんなことをやって何になるんだとか、あるいは、到底到達できないことにでも一生懸命取り組んでしまうこともあると思います。
それで、以前、ワールドメイトで聞いたある物語をふと思い出しました。
あるお坊さんが、A君B君と言う二人の若者に向かって、ここにある巨大な岩を素手で動かすことができたら、これだけの財宝をあげようと言いました。 そうすると二人の若者のうち、A君は、「そんなことは是対無理だから時間の無駄になる」といって、すぐにやめました。
もう一人のB君は、「そんなに財宝がもらえるのなら、やってみようか」と、とにかくトライすることにしました。
ところがいくら力を入れて押しても、岩はびくともしません。それでもB君はあきらめることなく、絶対に動かすんだと思って、毎日毎日押し続けたのでした。
B君も努力して頑張ったのですが、そうこうするうちに一年が経ち、それでもまったく岩を動かすことができませんでした。

それを見たA君は、「そうら、初めからこんなの動くはずが無いのだから、愚かなことだったね」と、言いました。 B君も、「そうかあ、無駄な努力だったのか〜」と思いました。
そこで、お坊さんが出てきます。そして二人に「ちょっと、二人とも服を脱いでごらん」と言います。
二人が服を脱ぐと、A君の体はひょろっとした体格でしたが、B君の体は、いつのまにか筋骨隆々のたくましい体つきになっていました。

そこでお坊さんは、「一見すると全然岩を動かすこともできず、なんの成果もなかった。まったく無駄だったように思えるけど、A君とB君の体格の違いを見てごらん。A君は何も変わらないが、B君には逞しい体と体力と健康が手に入ったじゃないか」と言ったのです。
物語はここまでですが、たとえ結果が出なくて失敗だったように見えても、一生懸命努力したことは別な力となり、無駄にはならなかったと言いたいのでしょう。
たしかにそうかもしれませんが、別なもっと有意義なこと、興味あるものに対して努力する道もあったのではないかと思います。

実はこの物語には、本当の信仰心について示唆しているそうです。 たとえば人間が目標を立て、それに向かって努力し、少しづつでも開花していくには、それはそれで苦しみをともないますよね。
しかし本当の苦しみというのは、この物語のように、いくら努力しても一ミリも動かず、まったく成果が無いことなのです。
それでもそれを一年続けたと言う精神力。やるだけやったことは、精一杯やり通したという魂の修練になっていたのです。
その結果、この物語ではたくましい肉体が授かるわけですが、実際は信仰力が授かっていたのです。信仰力=やり通す御魂の修練と言っても良いかもしれません。
何かを一生懸命努力し、成し遂げた場合は御魂の修練になっています。しかし、まだ本当の信仰力を鍛えるものとは言えないようです。
自分がいくら努力してもどうすることもできない、そういうものに対して、ただ苦しんで耐え続けている、そういうものが本当の御魂の修練になっているそうです。

「ええ〜!そんなわけもなく苦しむなんて、私にはできない!」という声が聞こえてきそうです。
まったくその通りで、僕もその気持ちはよくわかります。努力しても何の成果も上がらないものは、初めから避けたいものですよね。
それに伴う苦しみなんて、たとえそれが一年間だけだとしても、絶対避けたいです。
精一杯頑張ったのに成果が上がらないだけでなく、なんでこんなことになるのだと、いうこともあるでしょう。馬鹿馬鹿しくてやってられないと思いますよね。
それで途中でやめるのは簡単です。ですが、それでも止めずに続けている人は、何が違うのでしょうか。

僕はこの話を聞いて、ひょっとして神様への信仰にも同じようなことがあるのでは、と思いました。一生懸命信仰していても、なんでこんなことがと思うような良くないことが起きることだってありますから。
そんな時でも信じて疑わず、真心込めて信仰を続ける人は、どうなのでしょうか。そんな時こそ、信仰が試されているのだと思っているのかもしれません。
実際にそんなときこそ信仰力が磨かれているのだろうと思います。それでも続けていると、自分でも全く予期していなかったことですが、気がつくと全く違う人かと思うほど脱皮し、自分自身ですら驚くほど変わっていたことに気がつくことになります。

ビジョンを持ち目標を立て、絶対にできるまでやるんだと思い、努力する過程で苦しみながらもやり遂げた経験を持つ人は大勢いると思います。
目標の大小にもよりますが、そこまでは特別な信仰力がなくても、できる人はできるし、成功する人は成功すると思います。強い意志力を持っていればやれると思います。
しかし、努力をいくらやっても成果が上がらないような事柄に、ただ苦しみながら忍耐を続けることができる人など、ほとんどいないのではないかと思います。
もしもいたとするなら、そういう人の内面は、神様と交流しなければやっていけないところまで来ていると思います。
僕がワールドメイトで深見東州先生の若い頃の修行時代のことを知ったとき、深見東州先生という方は、そのような体験をしてこられた人ではなかろうかと感じました。

だからこそ絞り出すような祈りや、魂の叫びのようなものが、魂の奥から湧き出てくるのだと思います。 そこが神に通じる神通力の基礎になっているのではないかと、そんなふうにも思えます。
そういう深見東州先生だからこそ、努力すれば成果が出るものであれば、必ず成果が出るまでやり通すことができるのかもしれません。深見東州先生にとっては、それほど難しいことではないのかもしれません。
はじめに紹介した、「成功しないのは、成功するまでやらないからですよ」という、深見東州先生の何気ない言葉の奥には、そのような体験をしてきた上で備わった信仰力のようなものを感じます。
信念を持って努力し、成功する人はとても素晴らしい人物だと思います。それでも、本物の信仰力でもって努力している人物には、かなわないと思いました。
どんなに努力しても成就できそうにないものにでも、何年でも耐えて努力し続ける人は、人の信念をも超えた神なるもの、磨き抜かれた本物の信仰心を持っているのでしょう。
そのような本物の信仰心、信仰力からくる御魂の力が、深見東州先生の神通力や、強運の秘訣なのかもしれません。