
独自な日本の宗教観

主に日本と中国を除く、海外の国のほとんどは、何らかの信仰を持って生活する人がとても多いです。首相や大統領でもそうだと思います。
しかし、それでも戦争を行う政治家たちもいますし、暴動を起こしたり、テロを行う人も日本人と比較すると多いように見えます。本当に信仰を持っているのだろうかと、疑いたくなりますが、今日はそんなことを書きたいわけではありません。
無宗教でも、神仏は否定しない
日本は、無宗教の国と思われているようですが、なぜ、そうなのか。それが何か問題なのかをたまに考えることがあります。それについて書きますが、ただ無宗教と言っても、日本における宗教団体の信者数の合計は、統計上は人口の二倍くらいになるようです。
もちろん、ワールドメイトのように正確な信者数を把握し発表する団体は、かなり少ないでしょう。なので、この数値は全く当てになりません。
入信の定義を曖昧にしているので、信者にカウントされていたとしても、本人には自覚がないというケースが非常に多いと思います。

ところで宗教に入信していないと答える人でも、無神論かというとそうでもなく、神や仏はいるんじゃないかと思っている人も、かなりいますね。
特定な宗教を信仰していなくても、神の存在は信じるというのは、日本人に多いように思われます。
ちなみに無神論だと答えると、日本では普通でも、海外では神を信じない、道徳観のない、何か危ない人間かと思われることも多いようです。
複雑に変遷してきた神道
日本には古来から多神教の信仰が存在しています。仏教が伝来して以降は、いくつかの仏教宗派が栄えてきました。
仏教が伝来したことによって、古来からの信仰が神道として認識されるようになります。神道と仏教の二つの宗教は神仏習合し、明治維新を迎えるまで、ある程度融合してきました。
平安時代には、神や仏の存在を否定する人は、あまりいなかったと思われます。その後の武家社会でも、時代によって信仰の形はさまざまですが、武士や庶民に信仰が根付いていたと言われています。
勉強不足のため、あまり詳しくはありませんが、武士は禅宗の信仰が多かったようです。民間信仰の形態は多岐にわたり、修験道などの山伏や、「講」という多様な宗教行事を行う宗教結社のような集団などもあり、なかなか複雑だったようです。
祈祷や呪術的なものが多く存在していて、病気治しや招福など、現世利益をともなう信仰が盛んだったようです。
葬儀の役割もあります。江戸時代に檀家制度ができますが、庶民はいずれかの寺社と結び付くことになります。その結びつきによって寺社は、檀家の葬儀や供養を独占的に担いました。檀家は寺社にお布施を行ないます。

明治維新によって薩長を中心とする明治政府ができると、もともと尊王思想から立ち上がっていますので、神道を国家宗教にして、神道を中心にした国家をつくる動きに出ます。
そして神仏分離令が出されたことにより、それまでお寺に対してよく思っていなかった勢力や民衆もたくさんいたのでしょう、廃仏毀釈運動につながっていきました。
ところが神道を国教に据えるにしても、仏教と協力せずに教えを広めるのは難しい状況だったようです。
しかし協力はうまくいかず、結局は神道側が独自で教科しようとします。ただ、神道勢力の中でも、考えや祭祀の相違もあって、なかなかうまくいきません。
さらに西洋諸国からの圧力もあって、神道の国教化を諦めることになります。
しかし今度は、神道は宗教にあらずとして、表向き信教の自由に矛盾しない形をとるようにします。そうして公的な祭祀や道徳などにおいて、神道を国家的な機関の中に組み込んでいきました。
神道は宗教にあらず
神道には特別な教典もなく、祭祀が中心になるため、他の宗教に比べ宗教的ではない部分もあるかもしれません。
しかし神社には神様がいます。祭祀を行い信仰することで、ご利益を実感する人もいます。
経典がなくとも立派な宗教といえるわけですが、それを宗教ではないとしたために、本来の神道の持つ宗教的な活力を奪う結果になったのではないかと指摘する学者さんもいます。
あげくには戦後、米国から国家神道と呼ばれてしまうような、本来の神道とは違う方向で、国威発揚に利用されてしまったとする研究者も多いです。
神社の神主は、戦前までは国の公僕のような立場で宗教ではないとされていたため、宗教的な教えを垂れることは禁止されていたようです。
神主さんは明るい人が多いですが、今もって神社に行くと、宗教的な教えを話すのをあまり聞いたことがありません。それも、そのような政策の名残なのかもしれません。

神社のお祭りや、神社に由来する儀式は、今も地域に多く残っていますよね。ただ僕は、おそらく多くの人もそうだと思いますが、それを宗教的な儀式と意識したことは、ほとんどありませんでした。
本来なら宗教的行為である初詣や神社参拝も、多くの人はそこまで意識してないように見えます。神社で厄払いなどの祈祷をうけたとしても、神道の信者ですという人は少ないでしょうし、自覚もない人がほとんどだと思います。
神道を宗教ではないとする明治以降の在り方が、神社には行くけど、それを宗教的な信仰行為とは認識せずに、昔からの風習や儀礼のように思っているだけか、験担ぎ程度の感覚なのでしょう。
それでも神道の価値観、神様の存在は、日本人のDNAに刻み込まれているのでしょうか。神仏の存在も強く否定はしないという、現在の日本人の性質の背景になっているのかもしれません。
日本で宗教の役割は終わったのか
戦後、経済が急速に復興するにつれ、日本は豊かになりました。医学や科学も飛躍的に進歩を遂げました。
そのためか、かつてのように神仏に現世利益を切実に求める人々や、また、それを叶えるための呪術的な祈祷を行う人などは、減りつつあると思います。
昔はそれが普通に行われていたわけですが、今では、ともすると奇異な目で見る人も増えていると思います。
医学や科学の進歩、経済の発展も、とても素晴らしいことですし、人々の健康も改善され、寿命も伸びました。物質的に豊かになることで心も満足し、文化が発展することで精神的にも豊かになったと思います。
そのため日本人にとって、宗教はだんだん必要なくなってきたのでしょうか。そうではないと思います。
最近は葬式仏教と揶揄されることが多いお寺ですが、故人にとっても、家族にとっても葬儀は大切な儀式であると思います。
また、以前の記事に書きましたが、宗教の教えを学ぶことによって、心のバネや強さができて良い結果が生まれることが多いです。教えの内容にも左右されますが、宗教によって救われた人は今でもかなり多いと思います。
また、時代によって求める内容は変わりますが、今でも現世利益を必要とする人は、たくさんいると思います。
にもかかわらず、「宗教は気休めに過ぎない」、「宗教にご利益などあるはずがない」、などと否定する人がいるのが現状ですけどね。
今回、日本の宗教について書いたのは、日本における宗教の歴史を少し理解するだけでも、宗教に対する考え方が、かなり違ってくるのではないかと思ったからでした。
もちろん宗教の歴史に詳しい専門家でも、宗教の神秘の部分は決して理解しない人もいます。
そのような専門家に影響を受けた、宗教の本質を理解しないマスコミ関係者も多いので、その影響で日本全体に宗教に対する偏見が広がっている気がします。
そこは残念なところですが、やはり独自にしっかりと勉強しないと、宗教への偏見もなくならないのかもしれません。
これからの宗教
神道には聖典もありませんし、具体的な教えが明文化されてませんので、仏教と習合したり、儒教や道教と結びついたりして、教えの足りない部分を補っていた面があったようです。
明治維新前後からは、のちに教派神道と分類される神道系宗教団体が生まれてきました。ご利益を感じた人たちも多かったのでしょう。大きくなった団体もあります。
ワールドメイトは戦後生まれの、まだ40年ほどの歴史ではあります。教派神道系の宗教団体の一つとして、信仰を求める人や、ご利益を必要とする人たちに対して、かなりの役割を果たしていると思います。
ご利益信仰ではありませんが、現世を大事にする宗教であり、顕幽神にわたるその教えは縦横無尽であり、仕事にも生活にもさまざまな場面にとても役立つ教えです。
現代は物質的に豊かになったからこそ、昔とは違う問題も多く発生しています。宗教も昔の教えにとらわれず、今をよく理解した上で説かないと、救えないと感じています。
ワールドメイトは、そういう意味では、時代の最先端を走っている宗教団体ではないかと思っています。