
ワールドメイト定例セミナーは教えの宝庫

僕がワールドメイトに入会して30年数年が経ちます。これまでワールドメイト定例セミナーなど、さまざまな機会で、深見東州先生のお話を聞いてきました。
入会したときに印象に残ったのが、儒教や仏教、キリスト教など神道以外の宗教のエッセンスを、わかりやすく解説されていたことです。
はじめて宗教の教えの本当の意味が理解できた気がしました。そして、宗教への偏見や疑問が一つづつ無くなっていきましたね。また、宗祖に関する知識も増えるにつれ、その尊さも理解できるようになりました。
今回、その中から一つだけ、どのような話が聞けたかを、具体的に書いてみたいと思います。

中国古代の聖王と言われる尭舜の時代、いわゆる三皇五帝のうち最後が舜になりますが、その舜が王位を兎に禅譲するときに伝えたという、以下のような言葉が残ってます。
人心惟危(人心これ危うく)
道心惟微(道心これ微なり)
惟精惟一(これ精これ一)
允執厥中(まことにその中をとれ)
人間には煩悩が必ずありますが、そこから出てくるのが人心。同時に人間には神なる御魂から出てくるものもあり、それが道心と思ってください。
神なるものからくる道心とは、とても微かなものであり、大事にしていかないといけません。
そして人間として生まれた限りは、睡眠欲や食欲、性欲も含め、さまざまな欲望があります。人の生存本能から生まれてくる、さまざま人心には危うさが潜んでおり、これに気をつけないといけません。
そのことを、人心惟危(人心これ危うく)道心惟微(道心これ微なり)という言葉であらわしています。
民を治める帝であり、政治的な権力を持つ宰相であり、かつ聖人であるという、3つの要素をあわせもっていたのが堯舜と言われています。中国の君主における理想でもあります。
舜は兎に、どうしたらそのような聖王になれるのか、そのポイントを短い言葉にして伝えたわけですね。

後半は、具体的にどのようにすべきかを教えています。
惟精惟一(これ精これ一)とは、一生懸命に集中し、あっちにフラフラ、こっちにフラフラすることなく、精力的に励めと言う意味です。
派生的なことではなく、一番大事なこと、本質的なことに対して集中しなくてはいけません。一とは太極と言う意味があり、太極に集中するという意味でもあります。
右に左に揺れ動かない境地、太極の境地にい続けることを、主一無適と言いますが、それを儒教では「敬」と定義します。「居誠」、誠の状態にいるということです。
允執厥中(まことにその中をとれ)とは、中庸に出てくる中の意味を知らないと理解できません。喜怒哀楽を発する前の状態にいて、ひとたび発すると節にあたる。それが中という意味になります。つまり何かをやると、それがズバッとツボにあたって素晴らしいわけです。
允執厥中(まことにその中をとれ)とは、そのような状態にいつもいなさいという意味です。禅で言うところの禅定の状態、見性成仏した状態、平常心と、ほぼ同じ意味といえます。
簡単な僕の解説ではうまく言い得てないとは思いますが、そこはご勘弁ください。あと、儒教の教えである仁義礼智信も、このためにあると言われていました。

ところが儒教の仁義礼智信の教えも、形にとらわれすぎるとうまくいきません。そのためアンチテーゼとして老子が登場します。
老子の教えには、たとえば「天地に仁なし、万物を以て芻狗(すうく)と為す。聖人に仁なし、百姓を以て芻狗(すうく)と為す」とあります。「天と地には慈悲というものはない、万物を藁人形のように扱う、聖人に仁はない。百姓を藁人形のように扱う」という意味です。
一見、儒教の教えと全く逆のように見えます。これはより大きな善のためには、ときに無慈悲とも思えるような厳しいことでも為政者はしなくては、社会も守れないし、政治の務めは果たせない、ということを老子は言いたかったのでしょう。
より大きなものを活かすために、小さなものが犠牲になるということも、大変厳しいようですが、それが現実であり、実際の世の中ではよく起きていますね。人質をとり無理難題を要求するテロリストに対して、テロには屈しないという姿勢も、その一つだと言えます。
仁義礼智信にとらわれ、どこまでも優しくしていたら、より大きな角度から見た政治ができなくなりますよ。社会の規範も守れなくなりますよ。そのことを教えるために、儒教に対するアンチテーゼとして老子は出てきたようです。