
深見東州著「大天運」〜宗教をやる人が陥りやすいこと〜

「大天運」とは、深見東州先生6番目の著作になります。非常に濃密な、どこを読んでも深い内容ですが、簡潔に宗教の基本、本質が書かれていると思います。
今回はその「大天運」序章に書かれている内容を参考に、ワールドメイトで感じたことを書いてみます。
序章では、本格的なテーマに入る前の、大切なことが書かれていました。
初めてこの本を読んだ時、宗教に関する漠然とした嫌悪感のようなものの正体がわかった気がしました。
僕はスピリチュアルなものへの興味はあっても、既存の宗教団体への興味がほとんど湧きませんでした。宗教をしている人たちから、宗教への誘いを受けたことも何度かありましたが、惹かれるまでいきませんでした。
それにはいくつかの理由があるのですが、一番の理由がこの本を読んでわかりました。
宗教の教えというのは、仏典でも聖書でも、とても良いことがたくさん書かれています。なので、宗教に対する敬意は持っていました。
立派な宗教人が過去にたくさんいたんだなというのも理解していました。ただ現実に、そんな素晴らしい宗教を信じ、信仰している人たちを見て、違和感を持っていたのだろうと思います。
世の中には、宗教とはほとんど無縁なのに、とても立派な考えを持ち、しかも努力して実践している、すばらしい人たちがたくさんいます。そんな人たちと比べて、宗教を信じている人たちに、物足りなさを感じていたわけです。

この大天運の序章に書かれていることは、当たり前のことなのですが、「自分自身のことすら満足にできない人が、果たして他人を幸せにできるのか」ということです。
神仏を信じている人は、その宗教の教えを学んで、その人なりに社会を良くしたい、人に幸せになってもらいたいと思っている人も多いでしょう。それはそれで尊いことですが、世のため人のためと言っても、その第一号は自分自身を置いて他にないと言うことが書かれています。
つまり、社会のため、人のため、神様のために役に立ちたいと思うのであれば、まず何よりも自分自身を立派にすべく、真剣な努力と研鑽をするべきと、書かれています。

それを一言で言うと、己を磨くと言うことになりますね。人としての実力を身につけ御魂を磨き、物心両面にわたって自分自身を幸せに、豊にもできる。
さらに自分と家の悪因縁も精算できて、運気を盛り上げることができる。そんな研鑽と努力が己を磨くと言うことになります。
言われてみると、すごく当たり前のことなのですが、僕自身が宗教に対して違和感や嫌悪感を持っていた理由は、そのことをよくわかってない信者さんを見てきたからだと思います。

儒教には「修身斉家、治国平天下」という教えがあります。明徳を明らかにせんとする者は、まずその国を治めるようにと書かれています。
ただし、国を治めようとするなら、まず自分の家を斉えなさいと。家を斉えようとするなら、まず自分自身を修めよと説いています。
自分自身の修養が真っ先にあるわけです。それができてはじめて家を斉えることができます。
さらに修養を積んでいくと国を治めることができるようになり、最後は天下へという順番で進んでいくわけですね。
儒教は聖人に至る道を説いてますが、現実に即した教えであり、納得できますね。
より知恵を磨き、努力して社会的実力を身につけた分だけ、より大きく世の中の役に立てるようになるわけです。

深見東州先生によると、神様の道に生きようと思う人の中には、教えは熱心に学ぶけど、知恵を磨くことを忘れてしまい、社会的な実力を養うことを忘れてしまう人が少なくないと書かれていました。
純粋な聖職者を目指す人の場合は別にしても、僕が宗教に抱いていた違和感もこれでした。だから、このような基本的なことをしっかりと、わかりやすく序章に書かれたのでしょう。
よく宗教団体の問題点などが報道されますが、宗教団体がそのような基本を理解し、しっかりと信者にも説くならば、山上徹也の家庭を背景に起きた悲惨な事件をはじめ、問題の多くは無くなるような気がします。
僕がワールドメイトへの入会を決めたのも、そのような社会の基本をしっかりと踏まえている方が教祖であれば信頼できるのではと思ったこともあるように思います。
そして、ワールドメイトに入会し、その勘が間違ってなかったと安心しました。世のため人のためという志を持ちながら、実際は日々、己を磨くことを先行させているのがワールドメイトだと実感しました。
結局はそれが最も運が良い生き方でもあることも、のちのち理解しました。