ワールドメイトで、物事を継続する秘訣を学ぶ
2020年のワールドメイト正月神業で、深見東州先生よりいくつかの素晴らしいお話を聞けました。後ほどその話の内容も少し紹介しますが、その前に、その話とも関係することを書きたいと思います。
僕がこのサイトを始めて、すでに10年が経ちました。内容はともかく、我ながらよく続いたなと思います。
仕事が忙しく、何度も止めようと思ったこともあります。また、深見東州先生やワールドメイトのことを多くの人に知ってもらいたいと思い始めたものの、実際に文章でそれを書くとなると、なかなか難しいことに気がつきました。
それでも紹介したいという衝動に駆られ、ここまで書いてきたのですが、正直、文章を書くのが面倒くさいと思うこともあります。また、こんなことやって役に立つのかと思うことも何度もあります。
しかしせっかく始めたことなので、最低10年間は続けようと思い、止めずにきました。10年というのは、ワールドメイトに入会して最初に聞いた「堅・誠・恒」というお話からきています。
神様の道に叶う3つの局面
ワールドメイト会員じゃない人にとっては、「堅・誠・恒」とはなんぞやと思うでしょう。一言で言うと、道を成就させるための大事な3要素と思ってください。
道というのは、宗教でしたら神様の道、信仰の道ということになりますが、神には「真・善・美」の3つの局面があると言われ、宗教はその善の局面の、そのまた一つにすぎません。善には教育や福祉、スポーツもその一つと言われています。
真とは科学、学問、経営などがそれにあたります。美は芸術に関する分野になります。このような「真・善・美」における様々な分野は、すべて神様の道に叶うものといえます。
そのような神様の道を我を忘れて生涯貫いてきた人は、立派な信仰心があると言えます。
宗教だけが神ではなく、信仰なのではありません。音楽家にとっては「音楽」が神であり、スポーツ選手にとっては、そのスポーツが神であり、科学者にとっては真理こそが神なのであり、それを極めようと精進し続けている人は、立派な信仰心があると言えます。

道を成就する3つのポイント
先ほどの「堅・誠・恒」とは、それらを成就するためのポイントになると言われています。
例えば、病気を直すための原因を探り、治療方法を研究する医学者でしたら、何としてもこの病気を治療できる方法を見つけて、多くの人の命を救うんだと、堅い志を立てて努力していることでしょう。
医療の道に生涯を捧げた野口英世も、そんな人だったと思いますが、その堅い志、どんなことがあっても志を曲げない強い意志、そんな堅忍不抜の「堅」が、まず最初の大事なポイントになります。その「堅」が本物であれば、志を遂げるためのあらゆる努力を惜しまずに行うことでしょう。

しかし、それだけで道が成就するわけではありません。うまくいったときには、人間ですから驕りが出るかもしれません。始めは立派に努力し成果を上げていても、途中で道を踏み外す方向に行く人もたくさんいます。
ですから、次に大事なポイントは「誠」になります。これがある人は、いつも謙虚に自らを省みます。真心で持って、自身が立てた志に対し、口と心と行いがぶれていないか、己を正しながらいつも誠を尽くしていこうとするでしょう。
その2つのポイントに気をつけると、道からそれずに行けると思いますが、しかしそれだけでも道は成就しません。最後の「恒」が、一番大事なポイントになってきます。
せっかく一生懸命にやってきたのに、何かの理由で途中で止めてしまうことになっては、もったいないことです。人間ですからある程度やっているうちに、疲れたし、もうそろそろいいかなと思うこともあります。最初の強い志も、いつの間にか何処へやら消えてしまうことも普通にあることです。
最初に飛ばしすぎて、頑張りすぎたために息切れし、そのままプッツンしてしまう人もいます。また、人間関係や組織で嫌なことがあり、我慢できなくなって放り出したり、バカらしくなってやめてしまう人もいるかもしれません。
芸術のような習い事やスポーツなどは、すぐにうまくなるとは限りません。最初の志がいくら強くても、努力を継続していかなければ、せっかく才能があっても十分に開花することはありません。

逆にいうと、10年を一つの目安に努力し続けることができれば、才能が磨かれ、少なくともお金になるレベルにはなると言われています。道というものは、お金になることを目的としてやるわけではありませんが、一つの目安にはなるかもしれません。
「堅・誠・恒」でもって、最低でも10年続けると、その分野において、ひとかどの才能にはなるということです。
最初に書いた、最低でも10年は続けようというのは、そこからきています。もちろん、10年と言わず、20年、30年、生涯にわたり続けていくならば、さらに素晴らしくなるのはいうまでもありません。
古典から真実の学問を学ぶ
とはいえ、生涯にわたって続けていくことは簡単なことではありません。それを続けていくには、いくつかのポイントがあるとのことです。一つは、人生には年代によっていろんな山坂があるように、そこをよく考えてペース配分をすることが決め手になるようです。
様々な年代における自分自身の人生を、自分はどう生きるのかをよく考えて、それを考慮しながらやることです。

そして学問の力が必要になります。深見東州先生が、なぜ、あんなに様々なことを、疲れることもなく継続してやり続けることができるのか。しかもその多くがハイレベルなのですから驚くしかありません。
その原動力となるものは、万巻の古典を擦り切れるまで読み尽くしてきたことで、真の学問が身に付いているからだそうです。古典の中には、古の優れた人たちが、どのようにして人生を切り開き、志を全う成就してきたのか、あるいは、どのようにして困難に打ち勝ち、己を奮い立たせてきたのかなど、あらゆる答えが書いてあるとのことです。
深見東州先生には、それらの古典の内容を、様々な困窮や試練を経験する中で、自分のこととして咀嚼し、昇華されてきたプロセスが豊富に蓄積されているのでしょう。
深見東州先生自身に、確固としたフィロソフィー(哲学)が確立されており、揺るぎない不動の心や、誰もできないような努力を継続する源になっていると思われます。
それは、神様を強く信じているから身につくものではなく、学問や教養の厚みが必要です。このような場面ではどのように考えるのが良いのかという、その対応に見事に現れています。一味も二味も違う、見事な対応をされます。それを見て、僕らも学ぶことができます。

損得を超えた義の心に人は感動する
最後に、この度の正月神業で話されたことのさわりを紹介して終わります。今回書いてきたことの中で、真の学問の部分と重なる部分があります。そのポイントは義の心です。
義とは、義理人情とか、義勇軍などの義でもあります。たとえば三国志の諸葛孔明は今でも人気がありますが、劉備玄徳が亡くなった後の諸葛孔明の行動を見ると、義の心にあふれていた人物であることがわかります。
劉備玄徳の跡を継ぎ帝となった息子の劉禅は、残念ながら暗愚な人物だったと言われています。蜀の初代皇帝劉備が亡くなる時も、後継の劉禅が補佐するに値しないときは、孔明が代わって皇帝になるようにと命じて亡くなったそうです。
しかし孔明は、最後まで劉備の意思を継ぐだけではなく、劉禅を主として、蜀の丞相として漢王朝の再興に全力を尽くし、最後は戦場に没しました。孔明が最後の出陣に当たって劉禅のために書いた出師表を読むと、孔明の劉備に対する強い恩義、そこから劉禅に対しての忠義をも強く感じさせるものがあります。

日本にも、義に厚い人物というのは歴史上にたくさんいます。孔明と同じく戦の戦術に長けた楠木正成が、忠臣としてよく知られています。戦の天才でありながら、最後は作戦が後醍醐天皇に受け入れられず、負けるとわかっている戦いに赴き命を落としました。
孔明も楠公さんも私利私欲がない、損得勘定抜きの行動に思えます。孔明ほどの人物なら、自ら皇帝になり、他国と交渉して保身に走ることもできたでしょう。
楠公さんも、むざむざ死ぬことはなく、尊氏も楠公さんに感服していた節がありますから、相手側につくことだって容易にできたと思います。しかし、いずれもそうはせず、初志を貫き、主君への忠義を貫いて死んでいきました。
そのような話は、日本の歴史の中にはたくさんあると思います。そんな義の心を持つ人たちは、たとえ道半ばに倒れたとしても、後世の人々に高く評価され、大衆からの人気もあります。それは、僕らが義の心に強く惹かれるからであり、最後まで貫いた生き様に共鳴し、感動するからではないでしょうか。

しかし義を貫くというのは、そう簡単なことではありませんよね。途中にいろんな誘惑があります。不利になった時には周りのことを考えるよりも保身に走るか、周りを裏切ってでも寝返りたくもなるでしょう。
あるいは飽きてきたり、最初の志に意義を感じなくなったりすることもあるでしょう。人間ですから、多くはそんなものだと思います。
それだけに、暗愚で支える価値が無い主君であっても、あるいは、自分自身の信じる戦略が受け入れられず理不尽な戦になって死ぬことがわかっていても、それを義の心で、最後まで貫き通した人物を見ると、合理的でないと嘲笑う人もいるでしょうけど、多くの人は魂が揺さぶられるのではないかと思います。











