深見東州 (半田晴久) 氏のさまざまな活動に参加してきたワールドメイト会員が案内します
社会貢献

深見東州氏とブラインドゴルフ

Fuziwara

深見東州先生はブラインドゴルフを日本に紹介したことから「ブラインドゴルフの父」と呼ばれています。また、世界中のブラインドゴルフの発展に尽力してきたことも、関係者は皆知っていると思います。そんな深見東州先生とブラインドゴルフの出会いから、本格的な支援活動へ、そしてブラインドゴルフが軌道にのるまでの歴史をふりかえってみたいと思います。

社会福祉とは何なのか?という問いからはじまる

私はゴルフには疎いのですが、ワールドメイトに入会して、ゴルフへの関心が芽生えました。それは、20数年前になりますが、深見先生のブラインドゴルフへの取り組みを聞いてからでした。

いまでこそ、世界中のゴルフ関係者の間で、深見先生は大きな存在になられています。また、「日本のブラインドゴルフの父」といわれていると聞きましたが、当時はまだ、ブラインドゴルフを日本に普及していくために東西奔走されていたようです。

そこで、わたしがワールドメイトで知った内容と、深見先生の著書「ブラインドの皆さん、外へ出てゴルフをしよう」、また日本ブラインドゴルフ振興協会のホームベージ、その他のサイトを参考にして、深見先生のブラインドゴルフへの取り組みと支援について紹介したいと思います。

そもそも、深見先生がブラインドゴルフに取り組むようになられたきっかけの一つは、27、8年前に遡ります。当時、深見先生は、「本当の社会福祉とは何なのか」、「自分にできる社会福祉とは何なのか」という問いを、持ち続けておられたそうです。そんな時、日本社会福祉学会の会長を4期務めた一番ヶ瀬康子教授から、「民間で行う福祉は、人的にも財政的にも限度があるから、政府がやらないようなユニークなものから手がけるべきでしょうね。小規模でいいから、社会福祉文化に貢献できることをね。地道に成果をあげていけば、政府も一般の人も注目し、より大きな結果を得ることができるのだから。」とのアドバイスをもらいます。

要するに成功した実例があると、政府もはじめて乗り出してくるということです。さらに、福祉活動の原点は、「その人の自己実現のお手伝い」という、貴重なアドバイスを頂かれたそうです。

パースでロン・アンダーソン氏との出会い

その言葉を胸に秘めた深見先生は、1988年初頭、まだ30代のころ、お仕事で西オーストラリアの州都・パースに行かれた時に、友人からロン・アンダーソンという人を紹介されます。

ロン氏は視覚障害者でした。健常者の視野の0.5%以下しかないのに、それを聞くまでは、彼の目が見えないとわからなかったそうです。しかもロン氏はサーフィンをやり、水泳選手権、自転車レースに出場し、ロッククライミングやゴルフも行うと聞き、そのビデオも見せてくれたそうです。深見先生は、ロン氏が健常者といっしょにスポーツに取り組み、しかも心から楽しんでる姿に感動し、涙が溢れて止まらなかったそうです。

そして次の日に、いっしょにゴルフをされます。ハーフを終えて、ロンが60そこそこなのに、深見先生のスコアはずっと悪く、ロンから「ミスター半田は、目が悪いのではないか」と言われたそうです(笑い)。深見先生も、「いや、私は耳が悪いのだ。したがってピンを叩く音が聞こえないのだ」と、ジョークの応酬する、楽しい一日になったそうです。

その後ロン氏から、オーストラリアの福祉文化について教えを乞うと、オーストラリアでは、障害者であっても健常者と変わりなく扱い、障害者もみずから健常者の中に溶け込んでいける、人的環境を作り上げてきたことがわかったそうです。

対して日本では、障害者の社会参加の機会は大幅に増えたものの、世話をする人とされる人が向き合う関係が多く、また、チャレンジする意欲のある障害者は、まだまだ多くないようです。

社会の厄介者だと思い込んでしまったり、さもなくば、社会が面倒をみるものだと決め込んでる人も少なくないようです。また、障害者の自主活動も多いけど、活動に制限が多かったりするので、心から喜びを共有できるかどうかとなると、疑問符がつくようです。

深見東州先生は、その後もしばしばオーストラリアを訪れ、ロン氏が役員を務める西オーストラリア州立盲人協会と交流を深められます。そして、数ある障害の中でも本当に辛いと言われる視覚障害者が求めてやまないものは、健常者といっしょに体を動かし、すなわちスポーツに打ち興じることではないかと思ったそうです。

目だけが不自由で体が元気であれば、なおのことでしょう。そして、ウィンタースポーツや、球のやりとりがある球技になると難しそうですが、ゴルフならばと思い立ち、日本にも視覚障害者のためのゴルフ組織を設立しようと決心されたのでした。

「ブラインドゴルフ倶楽部」の発足

「新しい時代に本当に求められている福祉とは一体何なのだろう」と、求め続けた深見東州先生が、パースでのロンアンダーソン氏との感動の出会いにより、日本にもブラインドゴルフの組織を作ると決心されたわけです。

これ以上楽しく、明るく、幸せそうに身障者が自己実現をしている例を見たことがないと言われていました。また、日本でもスポーツ、芸術などをやる身障者はいますが、まだ国全体として自然に受け入れているわけではないようです。

ところがキリスト教圏のいいところは、そういう身障者を自然に受け入れる福祉文化の土壌が育っているのだそうです。そのようなオーストラリアにおける障害者を受け入れる環境と国民性を見ていて、日本との差を強く感じられたそうです。

そして、ゴルフは高級感があるスポーツだけに、ある程度やりこなし楽しめるようになったら、今までになかった視覚障害者の自己実現のモチベーションになるに違いないと。また視覚障害という困難なハンディキャップを背負っていても、ロン・アンダーソンのような人達と交流を続けていると、彼のように底抜けに明るく幸せで、あらゆる可能性に挑戦する視覚障害者が、日本にもどんどん出現するに違いないと思われたそうです。

さらに、地味な草の根運動によって、少しずつそのすばらしさが波及していけば、やがて日本の新しい福祉文化創造のエネルギーの一つになるだろうし、「視覚障害者のための質の高い生活と幸せの追究」が、21世紀に向かって必要な福祉文化創造へのテーマになるに違いないと確信されたそうです。

深見東州先生の電光石火のような行動力は、ワールドメイト会員の知るところですが、その直後、日本で初の「ブラインドゴルフ倶楽部」を設立されます。それが現在の日本ブラインドゴルフ振興協会の始まりとなります。1988年5月のことでした。

盲人福祉に貢献された松井新二郎氏が協力

ところで話は前後しますが、ロンアンダーソン氏との出会いの前に、深見先生はもう一人、大変素晴らしい人との出会いをされていました。故松井新二郎氏との出会いです。福祉問題については、一番ヶ瀬康子日本女子大学名誉教授から指針をいただいた深見先生ですか、視覚障害者については、故松井新二郎氏から啓蒙を受けたそうです。

松井氏については、ワールドメイトでのお話にもよく出てきました。この方は大正3年生まれで、26歳のとき戦地で両目を失明されています。その後苦労をされながら、盲人の可能性を切り拓くため、新しい職業の研究や開発に取り組み、数多くの盲人関係の組織に関与し、盲人福祉に貢献されてきました。

ヘレン・ケラー賞、点字毎日文化賞、厚生大臣賞、文部大臣特殊教育功労賞、吉川英治文化賞、毎日新聞社会福祉賞、黄綬褒章(昭和55年)、叙勲(昭和63年)など、数々の受賞歴があり、多くの業績を残しておられます。深見先生のワールドメイトでのお話の中で、松井氏の「目が見えないことは不自由であるが、決して不幸なことではない」という言葉を、印象的に記憶しています。

その松井氏にブラインドゴルフのことを相談し、視覚障害者を紹介してもらって、そこから試行錯誤しながら良い運営を研究していくことになります。はじめは松井氏が3人の視覚障害者を選んで説得されます。ブラインドゴルファーの誕生です。さらに、すぐに続く人が出てきます。そして1998年5月、上井草ゴルフセンター(杉並区)で、日本で初めてのブラインドゴルフの練習が、「ブラインドゴルフ倶楽部」としてスタートしたのでした。

青井利雄プロによる指導

上井草ゴルフセンターでゴルフを教えていた青井利雄プロを、深見先生はオーストラリアまで連れて行かれます。そしてブラインドゴルファーにコーチが教えるところを実際に見せて、日本でブラインドゴルファーをレッスンすることを承諾してもらいます。

なにしろ健常者でも難しいゴルフを、目が見えない人に教えてくれと頼めば、最初はだれでも驚きますよね。そんな青木プロを海外まで引っ張っていく深見先生の情熱もすごいですが、本場のブラインドゴルファーを見て目が点になり、素直に引き受けてくれた青木プロも素晴らしいです。

さらに驚くことに、オーストラリアのパースで日、英、米、豪の4国合同のインターナショナル・トーナメントの開催に、すぐにこぎつけられます。同年10月に開催されたこの大会は大成功を博し、それ以後毎年開催され、現在ではカナダ、ニュージーランドも加わっているそうです。

ただ日本では「ブラインドゴルフ倶楽部」は発足したばかりで、青木プロによる指導が5月から始まったものの、ブラインドゴルファーのために門戸を開いてくれるゴルフコースもなかったそうです。そんな当時の日本の状況を思えば、深見東州先生の行動は、自らを崖っぷちに追い込む不退転の決断だったと思います。

しかしワールドメイト会員は、深見先生が不可能を可能にすることを知っていますので、先生なら、さもありなんと思うと思います。それからの深見先生は、ゴルフ場に協力をお願いするために、全国のゴルフ場を回られるのでした。

第4回「ワールドチャンピオンシップ」が日本で開催

上井草ゴルフセンターでスタートした「ブラインドゴルフ倶楽部」ですが、当初はプレーの遅延を招くとか、コースが損傷するという誤った認識により、ブラインドゴルフに門戸を開くゴルフ場はなかったそうです。

しかも1988年といえばバブル景気真っただ中です。リゾート地開発の波に乗って次々と豪華な設備を持つゴルフ場が誕生する中で土地価格は上昇し、ゴルフ場の会員権も高騰していた頃でした。そんな景気の良い頃だっただけに、ブラインドゴルファーのために貸してくれるところを探すのは、とても困難だったと思います。

しかし何度も言いますが、そんなことで諦める深見東州先生ではないことは、ワールドメイト会員はよく知っています。全国のゴルフ場をめぐり、理解を求める深見東州先生の熱意によって、ついに2ヶ月後には千葉廣済堂カントリー倶楽部が、4ヶ月後には神奈川の清川カントリーが貸してくれるようになります。

そうして10月に開催が決まっていた「ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープントーナメント」に、4名の日本選手が出場を果たすことができたのです。次の年には、千葉県姉ヶ崎カントリークラプが貸してくれるようになり、2回目の「ブラインドゴルフ・オーストラリア・オープントーナメント」に、再び4人の選手が参加できました。

1990年以降になると、活動の幅も広がり、技術の向上がなされ、いろいろな大会で日本選手の活躍が目立つようになります。また、日本でも数多くの大会が開催されるようになります。 以下にその一部を紹介します。

  • 1990年9月、第1回ブラインドゴルフ・ワールドチャンピオンシップに、招待選手を派遣、ベスト10に入賞。
  • 1990年10月、第回ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」に派遣した選手が、女子B1の部で優勝。
  • 1991年4月、「ブラインドゴルフ倶楽部」を改称し、「日本盲人ゴルフ協会」(略称JBGA)が発足。関西でも5人のゴルファーが加わり、関東以外の練習拠点もできる。(年には、「日本盲人ゴルフ振興協会」と改称。)
  • 1993年10月、「ブラインドゴルフ・オーストラリア・チャンピオンシップ」で、派遣選手がB1クラス、プロアマ大会で優勝。
  • 1994年8月、日本で初めての正式なブラインドゴルフ大会となる「ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」を、多摩市桜ヶ丘カントリークラブで主催。派遣選手がB1大会で優勝。
  • そして、1996年には、日本でブラインドゴルフの世界選手権にあたる、第4回「ワールドチャンピオンシップ」が6カ国、45名のブラインドゴルファーの参加で開催。日本盲人ゴルフ振興協会がこの大会を主催し、NHKをはじめ、多くのマス・メディアがとりあげました。当時、ワールドメイト会員の私の記憶にもたしかに残っています。

世界ブラインドゴルフ協会の発足、初代総裁に就任

さらに1998年9月、2年間の準備期間を経て、「世界ブラインドゴルフ協会」が発足します。世界各国、各地域の代表が規約を批准し、初代総裁に深見東州先生が全会一致で推挙されます。深見先生は世界中のブラインドゴルファーが一堂に会せる組織を作ろうと、かねてより各国の盲人ゴルフ協会に働きかけていたため、それらが評価されたのでしょう。

この間に当初の「ブラインドゴルフ倶楽部」は、「日本盲人ゴルフ協会」、さらに「日本盲人ゴルフ振興協会」へと名前も変わり、いっそうブラインドゴルフを推進支援する体制強化が行われました。

はじめの数年間は、試行錯誤しながら細々と運営してきたそうですが、組織の本格的な構築を進め、視覚障害者の志賀功さんが会長に就任し、ブラインドゴルファーたちが自己実現の一環として、運営もやるように変わっていったのです。

それによって組織も本格化し、日本でもブラインドゴルフという福祉文化が欧米と同じレベルになるまでに、一人歩きを始めたのでした。それで深見東州先生は名誉会長に退かれ、以後はメディアへの紹介に取り組んでいかれます。

そうするとゴルフの経験がなくても、失明したことをきっかけにゴルフをしたいという希望者が出てきたそうです。その願いを叶えるためにも、深見東州先生は優れたスタッフ陣を構築しなければと、いっそうの努力を続けられたのでした。

私が感心することはいくつもありますが、なかでも日本のバブル経済が崩壊し、企業が芸術・文化スポーツの支援・保護からどんどん撤退するさなかの時期に、このブラインドゴルフを支援し続け、かつまたゼロから育てて、福祉文化として根付かせた深見東州先生の忍耐と根気と愛情の大きさと知恵に感心しています。

お金の支援をいくら行っても、それも大変なことですが、それだけでは人は育たないし、ブラインドゴルフも普及しなかったでしょう。視覚障害者も自己実現できなかったかもしれません。障害者への福祉といっても、そんな単純で簡単なものではないことが、ワールドメイトに入会してわかったことの一つです。

真のハイクオリティ・オブ・ライフを与えて下さる方

故松井新二郎氏はこう言われています。「私は常々、障害者は不自由であっても決して不幸な人ではない、と言い続けてきました。しかし、世の中には、いろいろ障害を持った人を、可哀想に気の毒にといって同情や憐憫の目で見る人が大勢います。確かに不自由ではありますが、ちょっとお手伝いして頂ければ、あとは全く普通の人なのです。ですから私は長い間、障害を持った人も、社会の中でみなさんと一緒に生きてゆけることを願って活動してきました。」

「端的にいえば、障害者に対する差別と偏見をなくしていただきたいと思います。差別というのは、制度上の問題としてとらえれば法律が変わればいいのです。国家公務員の点字受験が認められたようにあらゆる資格試験が点字で受けられるようになったり、誰でも利用しやすいように公共施設の不便さが改良されることが望ましいのです。」

「これに対して、偏見というのは心理的な問題ですから、徐々に根気よくお互いの意識を変えていくしかありません。身障者がどのような社会生活を過ごしているかを見るとその国の福祉レベルがわかるといわれています。目が見えなくともゴルフを、スキーを一緒に楽しむことができる福祉も、ここまでくるとその国の文化と言えるのではないでしょうか。私は半田先生(深見東州先生)の勧めで『手の中の顔』という本を出版させていただいたのですが、その反響は大きく、少しずつ社会の目が変わりつつありことを感じています。」

このことをわかって取り組むことができるのは、深見東州先生でなくてはできなかったでしょう。松井氏は、「半田先生は、真のハイクオリティ・オブ・ライフを与えて下さる方だと思います。私たちは目は見えなくても、ツエの響きで天気がわかり、声の調子で相手の顔つきや表情がわかります。視覚障害者は観音菩薩のように音で世の中を観ているのだと思っています。私は目に障害を持った人がゴルフを通じて生命の歓喜を知る姿は、経済大国の日本が真の文化国家になることにつながると確信しています。」と言われていました。

ブラインドゴルフから広がる活動

2014年にオーストラリアで行われたIBGA世界ブラインドゴルフ選手権大会では、世界ブラインドゴルフ協会(IBGA)新会長のシェリダン氏が、「ドクター・ハンダとロン・アンダーソンさんの出会いから、世界のブラインドゴルフの歴史が始まった。ドクター・ハンダが協会を作り、今日まで尽くした功績は計り知れない。」と讃えられたそうです。

IBGA関係者や、世界のブラインドゴルファーは、深見東州 (半田晴久) 先生のことをドクター・ハンダと呼ぶそうですが、どこの国の主催者も、冒頭の挨拶の時に、必ずドクター・ハンダへの感謝と敬意の言葉を繰り返し述べるのだそうです。

その話を世界の多くの大会に参加してきた日本のブラインドゴルファーの手記から知ったとき、ワールドメイト会員が、深見東州先生のことを尊敬し、心から大好きであることと同じ気持ちなのだなと思いました。

世界中の多くの人に心から愛される理由は、深見東州先生の愛の大きさ、本当の優しさを、触れ合った人みんなが実感するからでしょう。ワールドメイト会員だけでなく、深見東州 (半田晴久) 先生とおつき合いをされた人は、みんな先生のことを大好きになってしまうのだろうと思います。

話を元に戻しますが、日本盲人ゴルフ振興協会は2000年に特定非営利活動法人(NPO法人)に認証され、2004年には現在の「NPO法人 日本ブラインドゴルフ振興協会」に改称しました。ここからは、ブラインドゴルフと並行し、あるいは融合しながら、シニアゴルフにも活動が広がっていきます。その前に、もう一つ大事なことを書ききれてなかったので書いておきます。

ゴルフの世界的なトッププレイヤーの中には、熱心な慈善活動家もいます。たとえば、マスターズ、全英オープンのチャンピオンにそれぞれ3度輝いたニック・ファルドは、イングランド・ブラインドゴルフ協会をバックアップしているそうです。

また、全米オープンなどメジャーで3勝あげながらも、絶頂時の1999年に不慮の事故で亡くなるペイン・スチュアートは、全米ブラインドゴルフ協会をバックアップしていたそうです。そしてレギュラーで日本、アジア、豪州などで28勝を挙げたテリー・ゲールは、オーストラリア・ブラインドゴルフ協会をバックアップしているそうです。

テリー・ゲール氏とは、ロン・アンダーソン氏により知遇を得、当時日本のブラインドゴルフの大会などにおいて、直に日本のブラインドゴルファーの指導を何度もしてくれたそうです。それがどれだけブラインドゴルファーの励みになったのかは、いうまでもないでしょう。そのように、世界のトッププロの中には、献身的な慈善活動をする人が何人もいるようです。彼らと協力し接することにより、ブラインドゴルフの普及にも、はかりしれないほどプラスの影響がもたらされたのでしょう。

以下の、女子シニアゴルフの記事でも紹介しましたが、世界の超一流女子プロとブラインドゴルファーとの夢のラウンドを、深見東州 (半田晴久) 先生は世界で初めて実現されました。

その開催が決まったとき、世界の加盟各国・各地域のブラインドゴルファーの間にパニック的な感動が走ったそうです。 そして、どうやったら参加できるのかという問い合わせが殺到したそうです。

それはそうでしょう。シニアになったといっても、世界的な錚々たるスーパースターだった人たちが勢揃いしてます。テニスで言えばクリス・エバートやナブラチロワ、シュティグラフといっしょにテニスをするくらいステータスなことでしょう。そういう意味でシニアゴルフとの出会いは、違った角度からブラインドゴルフの普及にも、大きな貢献を果たしてきたと言えるかもしれません。

ここまで、深見東州先生とブラインドゴルフとの出会いから、普及していくまでの様子をふりかえってきました。ブラインドゴルフは、2025年現在、日本国内でも多くの大会が開催されるようになりました。世界でもそうです。以下の世界ブラインドゴルフ協会が公認する大会だけでも、かなりの数にのぼることがわかります。

ISPS HANDAの冠大会が多いことでもわかりますが、現在でも国内外のブラインドゴルフの普及のために、多くの支援をされています。また、別の機会にでも紹介したいと思います。

そして、2010年代に入ると、ブラインドゴルフだけでなく、障害者ゴルフ全体を本格的に支援されるようになります。パラリンピックの正式競技への登録を目指す上でも、その方がより良いのでしょう。

また、ブラインドゴルフへの普及の流れから、女子シニアゴルフとの出会いがあり、そこからまた男子シニアゴルフへ、レギュラートーナメントへとつながっていきます。そちらは以下の記事で書いています。あわせて読んでいただくことで、深見東州先生のゴルフの取り組みが、どのようにつながり、発展してきたのかが、わかるようになっています。

女子シニアゴルフの活性化に尽力
女子シニアゴルフの活性化に尽力

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ワールドメイト会員歴は30年くらい
以前、「深見東州(ワールドメイト代表)の実像に迫る」というサイトを運営していました。わけあって、新たにサイトを立ち上げる事にしました。昔、書いた記事はリライトしてから、随時、こちらのサイトに投稿する予定です。
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