
ワールドメイトのカンボジアにおける支援活動(1)

ワールドメイトはカンボジア第二の都市バッタンバンにおいて、2012年3月から医療施設の運営を行い、他にも孤児院運営など様々な福祉活動を展開しています。
カンボジアにおけるワールドメイトの福祉活動の歴史は、1996年、プノンペンにおける24時間無料救急病院「シアヌーク病院」建設にまで遡ります。
また、プノンペンではワールドメイト未来の光孤児院の運営を支援し、きれいな水が出る井戸をカンボジア赤十字とのコラボで全土に作り、また地方に小学校を建設し、クメールルージュによる国民大虐殺により未亡人となった遺族たち3万軒に、義援金を渡す活動なども行なってきました。
さらにカンボジアの未来のためには、若者に対する高度な教育は最重要であるとして、修士博士課程を備えたカンボジア初の本格的な私立「カンボジア大学」を建設し、その後の運営も支援しています。
この23年間、ワールドメイトは様々な形でカンボジアへの支援を続けてきました。そこで何回かに分けて、最新の情報を交えながら、改めてこのカンボジアにおけるワールドメイトの福祉活動を紹介しようと思います。
カンボジアの内戦の歴史
ワールドメイトがなぜカンボジア王国で福祉活動をするのか、その意味をよく理解する上で、まずカンボジアという国の歴史を知ることが必要だと思います。そこで最初に、カンボジアの主に戦後の歴史についておさらいしたいと思います。
1951年サンフランシスコ講和会議の席上、スリランカ(当時セイロン)代表がロシア(当時ソ連)が主張する日本分割案に真っ向から反対し、また、対日賠償請求権の放棄を呼びかけた時、真っ先に応じて請求権を放棄してくれたのがカンボジアでした。
サンフランシスコ条約によって、日本の戦争状態は完全に終結し、日本は主権を回復することができました。その翌年、アジアで最初の国王の来日となったのが、カンボジアのシアヌーク国王でした。
そして翌1953年、カンボジアはフランスからの完全独立を果たし、シアヌーク国王は独立の父と称えられます。非常に苦しい財政にもかかわらず、1954年には日本への賠償請求権を放棄します。
そのことが影響したのかどうかはわかりませんが、その後米英両国も請求権を放棄します。戦後の財政困難な時期だっただけに、日本にとって大変大きな意味があったと言えます。

1955年、シアヌーク国王は王位を父に譲って退位します。政治家となって選挙に圧勝し首相に就任します。同年、カンボジアは、戦後日本が外国との友好条約を締結した最初の国になりました。そのような友好関係の続くカンボジアですが、ベトナム戦争の後半からが、悲劇の始まりとなります。
宣戦布告が無いため、1955年とも1960年に始まったとも言われるベトナム戦争ですが、この戦争は冷戦下における代理戦争と言えます。その中でもカンボジアは中立外交を貫き、隣国が戦争に巻き込まれる中にあっても両陣営から援助を受けるなど、しばらくは開発が進んでいました。食料もシアヌーク国家元首がいる間は十分に自給できていました。
しかし、アメリカによる北ベトナム爆撃などベトナム戦争が激化するに従い、北ベトナムから南ベトナムにいたるベトコン(南ベトナム解放民族戦線)への補給路「ホーチミンルート」を国内に許容していたとして、米国や南ベトナムとの関係が悪化していきます。
カンボジアは北爆するアメリカと1965年に断行し、カンボジア領内においても米国による爆撃が広がっていきました。そして1970年、ニクソン政権の支持を得た親米のロン・ロルや、シハヌーク国家元首の従兄弟などがクーデターを起こします。
シハヌーク国家元首は追放され、ロン・ノル政権が誕生します。そして米軍と南ベトナム軍に、国内の侵攻を許したため国内は戦乱にされられ、一転して食糧難に陥ります。
追放されたシハヌークは中国共産党の支援を受け、亡命政府を樹立しました。この時毛沢東らに説得され、かつては弾圧していたポルポト派と手を結ぶことになります。それが食糧難による反米感情と重なり、極左過激派クメール・ルージュの農村部における勢力拡大へ繋がっていきます。当時10代でクメール・ルージュの下級部隊指揮官だったフンセンも、シハヌークの呼びかけでロン・ノル政権への抵抗に参加しています。
その後1973年にアメリカがベトナムから撤退すると、米軍の後ろ盾を失ったロン・ノル政権も崩壊しはじめます。そして1975年4月、ポルポト派がプノンペンを占領し、政権を握ることになります。

シハヌークは表向きはともかく、実質王宮に幽閉されていました。フンセンはこの時の戦いで左目を失明します。しかし翌年には、過激なクメール・ルージュのやり方に嫌気がさしてベトナムに亡命しました。
それからの約4年間にわたるポルポト政権下においては、あまりに惨たらしいことが行われていました。詳細には触れませんが、当時800万の人口のうち200万人とも推定される人々が、前代未聞の猟奇的とも言える大量虐殺、強制労働や飢餓、病気によって、あるいは粛清によって犠牲になったと言われています。
人口の3分1近くがこの4年間で減ったとも言われていますが、深見東州先生はフンセン首相から、新たな調べによって、当時の人口の半分が亡くなっていたと聞かされたそうです。
そのポルポト政権を倒したのは、ベトナムに逃れていたヘン・サムリンやフンセンのカンボジア救国民族統一戦線と、ポルポトと対立する親ソベトナム軍による圧倒的な軍事侵攻によるものでした。ポルポト政権はカンボジア国民だけではなく、当時ベトナム人も大量虐殺し、国交も断交し攻撃を行っていました。
1979年1月、ポルポトはプノンペンを逃れます。ヘン・サムリン政権が樹立し、ポルポト政権による大量虐殺の時代は終わりを迎えたかに見えました。しかしクメール・ルージュとポルポト派はジャングルに逃れ、その後も親ソ政権と見られたヘン・サムリン政権に対し抵抗を続けます。
世界もベトナムの傀儡政権であるとして、ヘン・サムリン政権を認めず、国連総会ではポルポトの民主カンプチア政府を代表として承認してしまうのです。さらに中国はすぐにベトナムに報復攻撃をしかけています。
幽閉されていたシアヌークは北京に逃亡します。ポルポト派など反ベトナム3派による「民主カンプチア連合政府」を1982年に成立させると、ヘン・サムリン政権との間で内戦状態になります。
ベトナム軍も内戦に介入を続け、反ベトナム派に攻勢をかけますが、ベトナム首相の急死によって政変が起きると、1989年にカンボジアから撤退しました。
ベトナム軍がいなくなったことで、内戦は泥沼化の様相を見せますが、折からの冷戦終結の機運を受け、1990年には東京で和平に向けた対話の場が設けられました。
1991年には国際連合の平和維持機関UNTACが設立。ヘン・サムリン政権を引き継いだフン・センと民主カンプチア連合政府を合わせた四派による、カンボジア最高国民評議会(SNC)が結成され、その後内戦は収束に向かっていくことになります。
1993年には国連監視下で総選挙が行われ、シハヌークの次男ラナリット王子が第一首相、フンセンが第2首相に選ばれます。そして立憲君主制を選択し、再びシアヌークが国王の座につきます。
1997年の選挙ではフンセンが首相に就任し、それから今日までその体勢が続いています。ポルポト派はこれらの選挙を拒絶し、ゲリラ戦闘を続けていましたが、中国や北朝鮮などからの支援もなくなります。1998年にはポルポトが死亡し、国内はほぼ平定されることになります。
その頃になるまでは、プノンペンに行くのにも、非常な危険を伴う状況であったということです。
内戦終結後、フンセン首相による長期政権
カンボジアは、9世紀から約500年間続くアンコール王朝(クメール王朝)の時代に栄え、インドシナ半島における領土も最大になりました。ただ、その当時でも隣国との紛争は起きていました。そして首都アンコールが陥落した後の15世紀以降、勢力が衰え、ベトナムやタイなどの隣国から、長く領土を圧迫され続けるという歴史が続きます。
18世紀から始まった欧米の列強時代には、長らくフランスの植民地となります。戦後独立した後も、ベトナム戦争に巻き込まれたり、ポルポトの台頭を招くなど、想像を絶する苦難を経験してきた国だと言えるでしょう。
日本でも激動の時代はありましたが、自国民を平気で大量虐殺したポルポト政権のような時代は、さすがにありません。近年は隣国や大国に翻弄されてきたカンポジアにおいて、いつも不幸になるのは罪のない大勢の国民でした。
この30年は、急成長を続けるアジアの中でも、フンセン政権の下で急速な経済成長を遂げてきました。一方、さすがに30年を超えるフンセン首相の長期政権では、最大野党の抑圧など、様々なことが問題として取り上げられ、欧米諸国からの批判も招いています。
フンセン首相としては、自分たちはかつて残虐な殺戮を行ったポルポト派を追い払ったのに、そのポルポト派を欧米は支持していたではないか、という思いがあるようです。そして、隣のタイではたびたび軍事クーデターで政権が変わるのに、選挙で選ばれたカンボジア政府が非難されるのはおかしいという思いもあるようです。
今年の5月にフンセン首相が来日した時には、「民主主義には、それぞれの国のあり方がある」として、「国家が自身で最適だと思う道を選んだら他国は尊重すべきだ」と述べていたそうです。

正直、現在のカンボジアの政治において、何が正しいのかを論ずるほどの詳しい知識はありません。ただ発展途上国においては、長期にわたる政権が必ずしも悪いとも思いません。そして途上国においては、報道の自由度も低い場合が多いですが、それも単純に悪いとばかり言えない面もあるように感じています。
途上国において、カリスマ的な指導者が長期政権を担うというケースは、他の途上国においても見られます。そのため民主化への停滞など弊害も起きています。それでも国として安定し経済が発展しているのであれば、民主的でコロコロ政権が変わって安定しないよりは、その国の人たちにとっては、よほど良いのかもしれないと、そう感じるようになりました。
強力なリーダーシップを持つ政治家が、長期にわたって政権をとることは、いろいろな問題があっても、ある程度の国力が備わるまでは、仕方がない面があるのかもしれませんね。それについて、他国がどこまで干渉するのかは、その国民の状況をよく知った上で、ケースバイケースで、慎重に判断しなくてはいけないように思います。
そして国民の判断力や民度が高くなれば、当然、報道の自由がなくてはいけないと思います。途上国によっては、国民の多くに的確な判断をするだけの素養や知識が欠けているケースもあるでしょう。その場合は、自由な報道が、かえって国を危うい方向に向かわせる手段として利用される恐れもあるのかもしれません。
報道の自由が高いことは素晴らしいことですから、そのためにも、国にとっての賢い選択ができるだけの素養を、国民が持ってなければならないと思います。
24時間無料救急病院「シアヌーク病院」を設立
カンボジアの戦後の歴史を振り返ってみました。ポルポト政権が倒れた後も、しばらくは内戦が続いたため、かなり落ち着いてきたのは1990年の中頃だったと言われています。
それでもその当時、プノンペンでも治安に不安があったそうです。ちょうどその頃に、深見東州先生はカンボジアを訪れ、荒れ果てた国の惨状を肌で実感されたそうです。何よりも病院がなく、医師もいない現状を知って、病に苦しむカンボジア国民の窮状に心痛め、24時間無料救急病院を建設することを決断されるにいたります。
当時カンボジアでは、人口3万人に対し1人の医者しかい状況でした。日本では500人に1人と言われていた頃です。ポルポト政権時代に、知識階級の人々を無差別に殺害し続けたからでした。

首都プノンペンに建設された24時間体制の無料救急病院は、国王にちなんでシアヌーク病院と名づけられました。米国キリスト教系の医療法人「ホープ・ワールドワイド」と協力し、海外の優秀な医師を確保すると同時に、近代的な医療設備を備えて、1996年12月から運営が開始されます。
治療を必要とする大勢の人々がいるのに病院もなく医師もいない、また病院があっても貧しくて医療を受けることができない人々がほとんどの当時にあって、このシアヌーク病院では、高度な医療を無料で施してきました。
また他の多くの病院における医療技術の指導など、重要な役割を果たしてきました。そして2003年には第2病棟を、2004年には第3病棟をワールドメイトの支援によって増設します。そうやって年間10万人近くの人々の治療にあたってきました。
ワールドメイトは、特定医療に限定しない医療費用や、当時400人近いスタッフの人件費と運営費、水道光熱費など、運営の根幹を担う部分を負担し続けてきました。また、グローバルファンドや、アメリカのODAにあたる公的資金の導入には、ホープ・ワールドワイドが担い、エイズや結核、マラリアなどの治療に限定してあてられてきました。
そのように医療法人「ホープ・ワールドワイド」との共同運営によって、約20年間に170万人の治療にあたってきました。カンボジア政府もシアヌーク病院をモデルに、プノンペンでは無料診療をするよう義務付けるようになります。この数年でどの病院も、一定数の割合で無料診療を行うように変わってきました。
その結果として、シアヌーク病院の無料診療を受けに来る人も少なくなってきたそうです。これは喜ばしいことです。また急速な経済発展にともない、生活が豊かになり治療費を払える人が増えてきました。
そこで2015年からは、求められる高度な医療や、専門化した病院へと脱皮し、運営全てを医療法人「ホープ・ワールドワイド」に委譲することになりました。ワールドメイトもある程度の支援は引き続き行うそうです。
急成長を遂げるカンボジア経済、地方では貧困に苦しむ
カンボジアは高い成長を続けるアジアの中でも屈指の成長を遂げました。最低賃金も2012年の月60ドルから、2018年には170ドルまで上昇します。一人当たりの名目GDPも右肩上がりで、2018年には1500ドルを超えました。ただ世界の平均からすると、それでも1割弱というまだまだ低い水準です。2018年の日本の一人当たりの名目GDP約39300ドルと比較するとわかりやすいと思います。
2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、カンボジアの828万人が、1日2ドル未満 (地方では人口の9割が1日1ドル以下) で暮らす貧困層であると推定されました。今は、その時よりはかなり改善されていると思いますが。
ちなみにカンボジアの2017年の時点での人口は、約1600万人です。
首都プノンペンはまだマシですが、地方との格差は激しくて、まだまだ貧困に苦しむ人々が非常に多いのがカンボジアです。その中で第2の都市(最近は第3の都市に)と言われるバッタンバンにおいて、2012年の3月からワールドメイト・エマージェンシー・ホスピタル(ワールドメイト救急病院)という外科病院の運営を始めます。

この病院は、イタリアの医療支援を行うNGOエマージェンシーが、無料で診療し運営をしていたものです。しかし本国の不況により運営ができなくなりました。そこでカンボジア保健省から深見東州先生に引き継ぎを検討してもらえないかとの依頼がきたそうです。
そこでハンダ・ファウンデーションが、この病院の資産と運営を引き継ぐことにしました。さらに翌年6月には、ワールドメイト・ファウンデーションへと正式に移管されます。名前もワールドメイト・エマージェンシー・ホスピタルとして、カンポジア保健省から認定されます。
バッタンバンのワールドメイト救急病院
カンポジア北西部に位置するバッタンバンは、隣国タイに奪われていた時代もあります。また、ポルポトの活動拠点にもなっていました。そのためこの地域では特に地雷による被害者が多数出ています。
1996年の時点では、カンボジアにおける地雷は、推定800万個以上埋まっているとも言われていました。ベトナムやアフガニスタンはもっと多いそうですが、カンポジアでは4万人が地雷で死亡し、4万人が地雷のために四肢を切断したと言われています。これらの地雷は、内戦においてポルポト軍や政府軍、ベトナム軍が埋めたものです。また国民が逃げられないようにするため、ポルポト軍によって国境近くに埋められたものも多いと言われています。
地雷を撤去するには、一個あたり200ドルから1000ドルかかるそうです。費用を抜きにしても、いまだに400~600万個ある言われる地雷を、完全に撤去するのは不可能ではないかとも言われています。
そのような地雷による被害が多いのが、このバッタンバンなのです。ワールドメイト救急病院には、カンボジア随一の外科の先生がいるそうですが、1998年に年間1000人もの地雷被害があった時の半数は、この病院で治療を受けたそうです。いかにこの地域に地雷の被害が多いのかがわかりますが、2013年にはそれが200人以下にまで減ってきたそうです。

ところが地雷に代わり、交通事故による外傷が激増しているそうです。しかしカンボジア北西部には、外傷患者に対応できる病院が少ない上に、特に複雑な外傷になると、外傷専門であるこの病院に来る人が多いのだそうです。さもなくばプノンペンまで、5時間かけていくしかないようです。
カンボジアでは、交通事故による外傷が2012年から急増していて、2015年に新しい交通安全法が成立してからは横ばいになってはいるものの、今日では、HIV、マラリア、結核による犠牲者の合計よりも、さらに多くの犠牲者を出すまでになっているそうです。
ワールドメイト救急病院の2016年12月までの統計によると、2016年は2万人を超える患者に医療を提供しています。ひと月にすると1700人を超えますが、そのうち半分が外傷の患者です。さらに200人が大手術を受け、2週間入院しているそうです。
残り半分はモバイルクリニックで治療を受けた患者だそうです。モバイルクリニックとは、標準的な診療機器を積んだミニバンなどで、病院の勤務医が一般の開業医がいない貧困地区などを定期的に巡回する移動診療所のことです。
ワールドメイト救急病院では、患者の収入に関わらず、高度な医療とケアを平等に施すことを目指しています。地雷の被害者と貧しい人々には常に無料で治療を提供してきました。2013年から2016年までの患者の55%は、そのような患者だったそうです。残りの45%は、一部か全額の医療費を払っているそうですが、半数以上の人々に無料で治療するためには、ワールドメイト会員からの惜しみない寄付が必要になります。
それから、高い医療レベルを保つには、カンボジアの医大の訓練だけでは到底足りないそうです。かといって、地域で熟練した医師や看護師を雇うことも困難なのだそうです。そのため海外の医療専門家による追加訓練を、3年くらい集中して行うなど、質の高い医療水準を保つための努力をしているそうです。
長期滞在できる外国人医療専門家の募集に加え、スタンフォード大学、カーティン大学、そしてロンドン衛生学部から、医療専門家を連れてくるパートナーシップを確立しています。深見東州先生と交流の深い大学ばかりなので、おそらくその賜物かと思われます。
そして管理チームは、若いカンボジアの外科医が上級外科医になるために必要な理論的、技術的スキルを学ぶのを助けるように設計された、3年間のトレーニングカリキュラムを開始したそうです。
そのような状況の中で、患者数は年々増えており、病床数も110あるとはいえ、命の危険にさらされている人を優先するなど、受け入れ総数を制限しなくてはならないほどだそうです。日本では想像つかないような状況と困難があるカンボジアでの医療福祉活動は、民間で対応できる範囲をはるかに超えているように思えます。
ワールドメイトでは、スタッフ200人からなるこの病院の運営費用を、ワールドメイトファウンデーションを通じて支援しています。
運営はハンダ・ファウンデーションが行っているそうですが、資金源の多様化を図り、交付金やチャリティイベント、寄付金の募金活動なども行っているそうです。薬品の現物寄付や、無償のボランティアにも助けられているそうです。
そしてワールドメイト救急病院のキャンパスに隣接して、2013年にハンダ・ファウンデーションが運営するハンダ・メディカル・センターが設立されました。そこでは有料の診療を行っているそうです。高品質な医療の提供と同時に、若いカンボジアの医者と看護師の職業訓練を行い、年間で24000件もの診療を行っているそうです。
そこで得た余剰金は、ワールドメイト救急病院の無料診療を支援するために使っているそうです。そんなハンダ・メディカル・センターは、2018年にアジア・ホスピタル・マネージメント・アソシエーションから、2つの優秀賞を得るという栄誉を得ています。


福祉活動の実態を知れば知るほど・・
ちなみに、ハンダ・ファウンデーションの資金も、多くはワールドメイトが支援しているそうです。カンボジアではハンダという名前に影響力があり、政府援助も受けやすく、また、他の宗教グループからの支援も得やすいとの海外事情があるそうです。
そこで現地スタッフの希望によって、ハンダ・ファウンデーションという国際NGOが、2012年に設立されたそうです。これまでの深見東州先生がカンボジアで行ってきた実績があってこその設立といえますね。
2012年に、カンボジア辺境の諸州に住む、最も貧しい人たちを救うというビジョンで、スタートしたそうです。現在は、そのハンダ・ファウンデーションと、ワールドメイト・ファウンデーションの2つが、カンボジアの福祉活動の母体となっています。

ところで福祉活動と一口に言いますが、それを実行し、求める人たちにとって有益な活動にするためには、資金確保はもちろんのこと、様々な機関とも協力をしつつ、前述したような様々なことをやらなくてはいけません。
本当に人々の役に立つ福祉活動を行うことがいかに大変なことなのか、それを継続するためにはどれほどのエネルギーと、工夫と、時間と、資金と、忍耐を要するのかを知れば知るほど、頭がさがる思いにいたります。
たまに、このようなカンポジアでの福祉活動や、あるいはブラインドゴルフの支援もそうですが、深見東州先生やワールドメイトのイメージアップのためにやっているかのように言う人も、世の中にはいらっしゃると聞きました。
実際の現場のことをよく知れば、そのような考えは、決して起こらないでしょうけどね。膨大な労力も時間も費用もかからないものをやっているのではありませんから。売名目的でやれるほど、そんな生易しいものではありません。
そのような目的でやる人は、このような規模の福祉医療活動を、そもそもカンボジアで10年も20年も継続してやるのは効率が悪いと思いますし、そもそも忍耐も費用捻出も、到底続くものではないでしょう。そう、断言しても良いと私は思います。
以下の記事で、まだまだ続きます。
