「山があっても山梨県。書画があっても、生姜はない個展!!」20周年記念、深見東州バースディ書画個展開催
2ヶ月以上前ですが、今年も深見東州バースディ書画個展が開催されました。今年で20周年でした。六本木の泉ガーデンギャラリーにて3月18日より、新型コロナ感染症対策をしっかりと行い、開催されました。
今回は、その開会式での深見東州先生の挨拶が、これまでにもまして、とても素晴らしい内容でしたので紹介します。
茶道と禅宗についてのお話
いくつかのお話をされた中で、最後に茶道について語られました。昨年に続き、お茶室の掛け軸となる書の作品や、自ら製作した茶器の作品も展示されていました。茶道の師範代の資格を持つ深見東州自らお点前も披露されました。
その掛け軸の書は味わい深いものでした。深見東州先生の場合、書のスタイルも一つではありません。さまざまな書体で書かれたり、一期一会の「一期」を文字ではなく、水墨画の「苺」にしてみたり、遊びごころに溢れた作品も人気ですね。
今回のお話では、岡倉天心が書いた「茶の本」を引き合いに出されて、茶道が老荘思想の影響を受けていることを説明されました。さらに仏教の影響、とりわけ禅宗、また時宗の影響があることを詳しく解説されます。
鎌倉時代以降、禅宗は武家の間に浸透していきますが、またお茶も、大名はじめ武家や貴族、名だたる商家などの間で広がり、愛好されていった歴史がありました。
戦国の世では、武将は明日が戦という日に、死を恐れずに戦いに赴くハラを固めるため、茶をたて一服飲み、改めて腹をくくり直していたそうです。同時に今日一日を満喫し楽しみ、人生最後の日になるやもしれないけじめをつけていたのでしょう、とも言われていました。
さらには雑念や妄想、不安や恐怖に打ち勝ち、存分に力を発揮できる覚悟を、お茶と禅の境涯を通して練っていたのだそうです。禅定を高める「茶禅一味」ですねと、深見東州先生は言われています。

日本に3つある禅宗宗派のうち、茶道と結びついたのは臨済宗でした。「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著した栄西(日本における臨済宗の開祖)が、茶種を中国から持ち帰り、事実上、日本に広く茶の効用を紹介したとされています。
そして茶を飲むと眠くなくなります。それが禅宗の修行に必要であったことも、結びつく動機になっていたと言われています。
その後はお茶会などが、大名中心に盛大に行われていきます。現在の茶道のような、いわゆるワビサビの精神がある茶の湯は、安土桃山時代に千利休によって完成します。千利休は、「術は紹鴎、道は珠光より」と説いていますが、利休の師匠である村田珠光と、その弟子に習ったと言われる武野紹鴎が、現在の茶道の始まりであり発展させた人物だと言われています。
村田珠光は一休禅師のもとに参禅していました。あるとき、珠光が茶碗を取り茶を飲もうとした時、一休禅師は大喝してその茶碗を払います。茶碗は砕け散ったと思いますが、一休禅師は珠光に対し、「ところでお前は何のためにお茶飲むのだ」と禅問答を仕掛けました。
はじめは何も答えられなかった珠光ですが、庵を出ようとする時に、再び禅師から同じ問答を仕掛けられます。すると、「柳は緑、花は紅」と答えました。この言葉の深い意味は、別な機会に譲りますが、この瞬間に珠光は見性しており、その言葉は珠光の魂からほとばしり出たものだと、深見東州先生は言われます。
これは禅の師匠が、弟子がそろそろ見性するなという禅機を捉えて、その手助けをしたものです。雛鳥が、卵の内側から殻をコツコツ叩くと同時に、親鳥が外から殻の同じところを叩き、見事に殻が割れる「啐啄同時」というものです。深見東州先生は、ここから「茶禅一味」が始まったのでしょうと言われていました。
禅と茶が結びついたわけです。深見東州先生によると、茶道は生活を芸術にしたものと表現されています。
禅宗は、開祖達磨が悟った時、「不立文字」と言い放ちました。お釈迦様の教えの真髄は文字に立たないものだという意味です。それを単なる知的な理解と思ったらいけないようで、達磨が見性した時の魂の叫びなのでした。
難解かもしれませんが、見性とは、生まれながらの心の中にいる自分自身の本質を、霊的な覚醒によって、全身全霊でわかって成仏する、すなわち、その瞬間に人は仏様そのものになるということです。

禅宗と融合した「劔禅一如」「俳禅一味」「茶禅一味」という世界
ちなみにお釈迦様は、見性した時に「天上天下唯我独尊」と、やはり魂からの叫びを発しました。この言葉はあまりに有名ですが、決して「私が誰よりも尊いのだ」というような、傲慢な意味のことを言ったのではありません。
お釈迦様の悟りについてはまたの機会に譲りますが、禅宗は、文字にとらわれず、つまり経典とかドグマにとらわれずに、自分で真理、仏性を見出すことにあります。
そして芸術の世界も高い次元になると、やはり同じような境地になるものですと、深見東州先生は言われていました。宗教と芸術は違う分野ですが、禅や芸術も高い境地に至る道は、実は同じ道につながるのかもしれません。
芸術も、あるいは俳句や柔道、剣道、茶道、華道など、およそ道と名のつくものは、その真髄が文字や言葉ではないだけに、同じく文字や言葉ではない禅宗と融合し、「劔禅一如」「俳禅一味」「茶禅一味」という世界ができてきたのでしょうと言われていました。
とはいえ禅宗には、不立文字と言いながらも、実は禅師の言行録や書物がたくさん残っています。 文字や言葉で表せない真実の仏性の本質を、優れた禅師たちはあらゆる言葉を通して表現してきました。禅語録を読むと、様々な言葉で、弟子を見性に導く様、指導する様を感じることができます。
ですので芸術も、武道においても、そのような禅の境涯によって練られた言葉を通し、武術や芸術の技や技巧を練ることを通して、技術を超えた精神性を表現することができるようになるそうです。
そして、文字や言葉ではない世界を、文字や言葉ではないところで深く受け取り、文字や言葉、技術を通してそれらを表現することができるのだそうです。そこに禅宗と芸術が深く結びつく要素があるのでしょう。

芸術の良し悪しの判断の一つに、「気韻生動」というものがあります。絵画や書もそうですし、音楽でも、そこから出てくる気、そこから出てくる余韻が、生きて動いているか、そこがその作品の真髄でもあるとも言われています。
自分の中に眠っている仏性を覚醒させようとする、禅宗の精神と通じるところがあるのかもしれません。臨済禅師は、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」と、真実の自己が、いつも出入りしているではないか、それを見たことが無い者は見よ見よと、激しく弟子に迫りました。
芸術も素晴らしい作品には、その人の真実の自己といいますか、芸術を通して磨き上げた素晴らしい魂が宿っていると思います。そのようなところからも、今日まで禅宗は芸術の精神と結びつき、脈々と生き続けているのかもしれません。
近年、西洋人の間でも禅がブームになってきたのも、東洋の神秘や瞑想という、単なる未知のものへの興味というよりも、禅の本質が芸術や文化という人間の高貴な部分と深く結びついて、良いものを引き出したり、高貴な精神性を表現してくれることに、どこかで気がつき、惹かれているのかもしれませんね。
「山があっても山梨県。書画があっても、生姜はない個展!!」概要
レオナルド・ダ・ヴィンチや空海、本阿弥光悦に勝ることはできません。
しかし、素晴らしいところを学び、手がけなかったことをやれば、個性が輝きます。
彼らに追いつき、追い越そうとすする気概や研究、努力が尊いのです。
これを50年続けるのが、深見東州の “劣るとも勝らない美学” です。
また、深見氏は、江戸千家新柳派の茶道師範であり、嵯峨御流の華道師範でもあります。
そこで今回は、書画展にお茶会と華道を融合させます。
また、深見氏は画家ですが、美術評論家でもあります。
氏が集めた絵画56点の中から、約20点展示します。
代表作や、時代を代表する作品ばかりです。
いわば「バースデー書画個展」と「他人の書画展」の融合です。

2020年 3月18日(水)~24日(火)
主催:東京芸術財団
共催:株式会社ミスズ 株式会社たちばな出版
会場:泉ガーデンギャラリー
東京都港区六本木1-5-2
同時開催 バースディ時計宝飾展!!
2020年 3月18日(水)~22日(日)
会場:ベルサール六本木 グランドコンファレンスセンター
東京都港区六本木1-5-2 住友不動産六本木グランドタワー 9階











