深見東州氏の幼少期からワールドメイトが誕生するまで
ワールドメイトが誕生するまでの歴史について、著作やメディアでの掲載、直接ワールドメイトで聞いた話を元に書いています。
深見東州先生の幼少時代
深見先生のお父様は、特攻隊上がりの正義感の強い方で、戦争中、一週間後に出撃という時に終戦を迎えたそうです。
復員後に深見先生のお母様となる方と結婚され、上官よりかねてから学歴が大事だと聞かされていたこともあり、勉強を始めます。
そして関西学院大学の経済学部に首席合格し、2番で卒業するほどの優秀な頭脳の持ち主でした。
ところが、在学中に左翼思想に傾倒し、学生運動に明け暮れます。無罪にはなりますが、一度未決の牢屋にも入ることになります。
その頃母親のお腹の中にいたのが深見東州先生だったそうです。
今では笑いながら、格子戸を見ると、どうも腹が立つんですよね、胎教が悪かったんですね、などジョークのネタにされてますけどね。
お父様が大学3年の、1951年3月18日に深見東州先生は誕生されました。
当時、お父様は学生自治会長などもしていて、子持ちで左翼であることが災いし、卒業後、企業への就職がままならなかったそうです。
政治家の秘書になり、左から右まで経験し、両方に絶望されたそうです。そして政治家を目指し(地方選挙)立候補するものの次点で落選します。深見先生が高校2年の時のことです。

深見東州先生が小学校の頃の話に戻りますが、お父様は元来気性が激しい方で、お母様もひどい目にあい、苦労され、家庭内は争いが絶えなかったそうです。
頭が良く、ケンカに強く、超ワンマンで商家の悪習である飲む打つ買うの人だったそうです。
そのためまともに家で食事もしたことなく、お父様から逃げ回る日々で、一家団欒などは、ほとんど経験したことがなかったと言われていました。
深見東州先生は、普通の家庭が羨ましかったと本に書かれていました。そして、いつも「母を助けてください」と真剣に神様に祈っていたそうです。
妹や弟のためにも祈っていて、深見東州先生の祈りの習慣はそこから始まったとのことです。
深見東州先生のお母様は信心深い方で、そういう環境のなかで、世界救世教に通うことになります。しかしお父様は、「宗教は阿片だ」と言い、全く許してくれない状況でした。
小学校5年の頃、お母様が深見東州先生のために、お守りをもらってくれることになったそうです。
深見先生はそれが無性に嬉しくて嬉しくてしょうがなかったそうです。すでに天命を無意識のうちに自覚されていたのでしょうか。
ところがお父様が、お母様が身につけているお守りを引きちぎってしまい、深見東州先生のお守りの話しも中止になります。それが悲しくて3日間も泣いた記憶があると、著作に書かれていました。
深見東州先生の中高時代
深見東州先生の中学1年の頃のエピソードですが、当時の日記に「昔の偉人たちは皆人類のためになる遺産を残して死んでいった。この世には、その遺産がどんどん増えていくのだから、未来はきっと理想の素晴らしい世の中になるに違いない」という意味のことを書き、学校の先生から感心されたというものがあります。
何も偉人に限らず、普通の人でも、これだけは残したいと思って取り組んでいる人は多いと思います。そういう良いものがどんどん積み上がっていけば、良いものが集まった世の中になっていくはずです。
それで単純に、いつか必ず人類の理想の世の中がやってくると思ったそうです。
中学生でそこまで思うのは珍しいかもしれませんね。

余談ですが、私も小さい頃、漠然としたすばらしい世の中になっている夢や想いを描いていたことを思い出します。ただ言葉や文章でそれを人に伝えるなんてことは考えたこともありませんでした。
少年少女の頃に、そういう理想の世界を夢みていたという人は、ワールドメイト会員にも多くいますけど、やはりほかの人には言わなかったようですね。
深見東州先生は高校入試の前までは、家庭内の不和もあったせいか、あまり家に寄り付かず外での遊びに夢中になっていたそうです。
このころの楽しい遊びのエピソードは、ワールドメイトでもよく話されています。
そして中学では先生から、「君が(高校に)合格するなら、全員が合格する」などと言われてしまったそうです。
学業は最下位に近い成績だったそうですが、その言葉を聞いて、「皆が合格するためには、自分が合格しなくてはならない」と考えたそうです。
とても前向きな捉え方ですが、そうなるために勉強し、成績が上位に上がっていきます。
そして、県立鳴尾高校に入学することになります。

高校に入学した直後、深見東州先生15歳の4月8日、世界救世教に入信します。
4月8日はお釈迦様の降誕日ですが、その日が宗教活動の始まりとなります。
入信のきっかけは、家庭もよくなるし、健康もよくなるよと、世界救世教の支部長さんに言われたからだそうです。
深見東州先生の場合、小さい頃から神様のことが大好きで、一人で神様に向かって祈っていたほど、神様なしでは生きてはいけないと思っていたそうですす。
すでに信仰力の土台ができていたのでしょう。
そうして深見東州先生は、自分には神様の道しかないと自覚されるようになります。神の道を貫き、世の中を良くして理想社会を実現したいとの決心を固めていかれます。
ワールドメイトへとつながる信仰の道
当時の宗教体験のエピソードに、世界救世教のお守りである「お光」を授かり首にかけていると、翌日、胸に激痛を感じて教会に駆け込んだことがあったそうです。
すると、お守りを外した胸の部分の皮膚が、火傷のように赤く腫れ上がっていたそうです。
また教団には、人の嫌がることが最も功徳が高いという教えがあり、毎朝登校前に、必ず支部に寄って便所掃除の奉仕を行ったそうです。
そうしたある日、妹さんが手にイボができて悩んていました。そこで「イボイボ移れ」と深見東州先生が言うと、妹の手からイボが消滅し、代わりに深見東州先生の手にイボができたそうです。
とても痛かったそうですが、3か月くらいすると突然消えてしまいます。これは奉仕活動をやっていた功徳だと感じ、感謝したとのことでした。
深見東州先生は、高校では生徒会の活動が忙しく、世界救世教の支部では学生部を結成して熱心に活動していました。
学生部では最初は一人で頑張っていましたが、その熱心さを見た素敵な女学生が応援してくれるようになり、その女性のおかげでたくさんの学生が集まったという話も聞きました。
そして、これもワールドメイトで何度も聞いたお話ですが、高校2年の頃に、年4回の熱海聖地参拝をやり遂げたそうです。
ちょうどその頃は、お父様が選挙に落選した直後で、ずっと家にいる状況の中、家計も火の車だったそうです。「神様なんて非科学的なことは言うな」というお父様の厳しい視線がある中でした。
深見東州先生は、聖地参拝は神様に対する義務という純粋な気持ちで、絶対に行かなければいけないと思っていました。そして奉仕活動を続けていけば、なんとか行けるようになるはずだと信じていたそうです。
1回目の聖地参拝は、お母様がお金を工面し、行けるようになったそうです。ただ、恐いお父様に見つかると大変なことになるので、それをどうするかでした。
聖地との移動の間中、とにかくひたすら、祈り続けたそうです。絞り出すように、「神様がいるのなら絶対に見つからないようにしてください」と、魂の底からの祈りでした。
留守中、非常に直感の鋭いお父様に、あわやバレそうになりますが、家族の機転を利かせた連携プレーのおかげで、弟を深見先生と勘違いし家にいると思い込み、難を逃れ1回目は無事に参拝することができました。
ところが2回目の聖地参拝のときは、お金が捻出できず、行くことができない状況でした。
しかし必ず行けると信じて、ますます熱心に奉仕活動を行っていると、出発3日前に奇跡が起きます。
女性の支部長さんが、深見東州先生の熱心な様を見ていて、「私には子供がいないから、あなたを自分の子供だと思って、行かせてあげます」と言われて旅費を出してくれたそうです。
深見東州先生の大感動は言うまでもありませんね。
そのようにして、とうとう年4回の聖地参拝を、高校2年生でやり遂げたのでした。これによって信仰力に自信を持つことができたそうです。
これらの体験談は摩訶不思議な内容ではありません。他人からすると、たまたま運が良かったのだろうと感じる人もいると思います。
しかし当人たちにとっては、奇跡としか思えないような証によって達成できたのです。
他人からすると小さなことかもしれませんが、困難な中で必死で祈り、神様が動かれたという実感は、本人にはわかるものです。
ワールドメイト会員も、似たような経験を積み、奇跡としか思えない体験を、多くの人が持っています。
浪人生活を経て、大学へ入学
スポーツニッポンに連載された、自らの半生を語った「アカスリ半田劇場」に、鳴尾高校時代に生徒会に入って活動していたことが書かれていました。
同時に書道部に入り、のめり込んでいたことの記述もあります。
入部のきっかけは、一通のラブレターを女子生徒からもらったことから始まります。
とても素敵な人だったそうですが、ラブレターへの返信を便箋8枚に綴りますが、相手からの返事がなかったそうで、フラれてしまいました。
もっとスマートに、お茶にでも誘へばよかったと、当時をふりかえって言われていました。
その時に文章力の無さと字の汚さを感じ、日記を書くようになり、綺麗な字をかけるようにと書道を始めます。
しかし字は上達したものの、大学試験には失敗し、浪人生活が始まります。

この時期には、いろいろなことがあったそうですが、まず、深見東州先生の熱心な活動を知った世界救世教の教会長(支部長の上に立つ人)が、深見先生を教会直属にするよう支部長に命じたそうです。
これまでお世話になった女性の支部長さんは、神様への純粋な信仰に全てを捧げている、神様が全てという方だったそうです。
それに対し、その教会長は男性で、広く社会性を持った考え方をする方だったそうです。
深見東州先生に対し、「神様、神様というのもいいけれど、日常の生活が基本ですよ。あなたには、お父さんとの葛藤があるようだけど、まず家庭をよくしなければいけません」と言われたそうです。
先は長いのだから学生のうちは勉強をしっかりして、親あっての自分なのだから、親孝行しなさいと諭されたそうです。
この教会長の言葉に、ガツンと頭を殴られたような気持ちになったそうです。
家族のために神業をやっているつもりだったのに、結果的にそれがお父様の神経を逆撫でしてしまい、新たな対立の火種になってしまっていること。
反発ばかりして、親孝行などは何もしていないこと。ミロクの世という、理想の世界を作るんだという夢に生きてきたけども、一番身近な家庭での争いと葛藤の原因を作っているのが自分であると気がついたそうです。
人類全体の幸せといっても、その一歩は自分の家庭からだと気がつき、それ以降、お父様から何を言われても逆らわずに、素直にいうことを聞き、頭を下げるようになったそうです。
それでお父様も、息子の態度がガラッと変わったので、さすがにおかしいと思い、その理由を聞いたそうです。
それで深見東州先生は、その教会長のお話を聞いて心を入れ替えたことをお父様に話します。
すると、こんな素直な良い息子になってくれたのは初めてだと、お父様は大感激し、「お前がそんなにいい子になるようなところなら、わしも信心させてもらわなきゃいかん。そして教会の先生にもお礼を言わんとな」と言って、驚いたことに翌日入信されたのでした。
そうやってお父様も入信し、熱心に活動をされていたそうです。
しかし、その教団で大きな裁判ごとが起きたとき、義侠心の強いお父さまが渦中に入り、良かれと思ってしたことですが、逆に悪人にされてしまったそうです。
それで嫌な形で辞めることになります。
深見東州先生の信仰心は何があっても変わりませんが、お父さまは宗教団体の嫌な面を見たとのことで、こんなことに引っ張り込まれたのもお前のせいだということで、再び第2の迫害が始まります。
しかしもう、深見先生がお父様を憎むことはなかったそうです。
それから、もう一つ大きな出来事として、大本との出会いがありました。
そのきっかけは、お母さまが病に伏されたことに始まります。医者の診断では、どこといって悪いところはないということです。
他の人から、医者の範疇ではないのかもしれないとのアドバイスがあり、それで大本の宣伝師のことろに出向き、お取次をしてもらったそうです。
するとたちまち病状が回復したので、お礼にと、その宣伝師の師匠に当たる松本マツ子氏を尋ねて行ったそうです。
松本マツ子氏は、大本屈指のシャーマンと言われた有名な方です。
松本マツ子氏は出口王仁三郎、出口すみ、出口日出麿と仕え、第2次世界大戦中は、牢屋に収監されていた出口王仁三郎からの、「6大都市はすべて空襲で焼かれる。大本信者は皆、即刻疎開するように知らせよ」との命を受け取り、奔走したこともあります。
そのため多くの信者が救われたそうです。
不思議なのは、深見東州先生が大本の神戸分苑を尋ねる前、出口直日3代目教主が、当時全国を回って布教活動をしていた松本マツ子氏に、神戸に分苑を作りなさいと命じたことです。
理由は一切聞かないでと言われ、なぜ神戸に分苑を作り、神戸地区を受け持つことになるのか松本マツ子氏もわからないまま、そうされていたそうです。
しかし、そのおかげで、深見東州先生にとっては、大本屈指のシャーマンである松本マツ子氏との出会いがあり、そこで多くのことを直接学ぶことができたのでした。
その後も、出口京太郎氏から、「大本の中にも、狐だ、タヌキだ、霊だと言っている人がいるが、いつまでもそんな話をしているようじゃ本当の宗教とは何かを見失ってしまうよ」と諭されたことがあったそうです。
その言葉で、広くて大きな宗教的社会性に目覚めたそうです。
大本との繋がりは、大学を卒業した後も、しばらく続いていきます。
それから深見先生が大学受験に失敗し、神戸で浪人生活を送っているときのこと、高校時代に深見先生をフッたあの女性が、再び近づいてきたそうです。
ところがまた突然結婚してしまい、またまたフラれてしまいます。それで深見先生は、周囲も驚くような読書家に変身します。
悶々とした葛藤を経験したゆえに、哲学や文学に走ったのか、目覚めてしまったのでしょう。一日一冊読むほどの勢いで、浪人時代には本を読んでいたそうです。

ここまでの深見東州先生の信仰体験やお父様との相克は、本当はこんなものではなく、もっとものすごいことがたくさんありますが、ここには書けないような内容なので割愛しています。
そのお父さまとの間における、あられもない葛藤、苦しみを通じて、深見東州先生の不動の信仰心ができあがっていったのでしょう。
また、厳しく鍛えられたことにより、常識の世界においても、相手を納得させることができるだけの実力を身につけることができたのでしょうと言われていました。
深見東州先生は、常識の社会に通用するようでなければ、神様ごとをやってもなんの意味も無いと言われています。
現実世界に通用しないただの神様狂いでは、社会的にダメになるのがオチであると、はっきりと言われています。本当にその通りだなと思います。
その後の大学時代、社会人になったあとも、深見東州先生の試練はうんざりするほど続きます。
あたりさわりのない部分だけしか書いていませんので、十分には伝わらないと思いますが、深見東州先生は、それらの試練を神様の大愛による神鍛えと受け取り、不動の信仰力を身につけ、大きな器の人物になられたのだろうと思います。
同志社大学時代、ESSでの活動
生まれ育った西宮を離れ、大学は京都の同志社に入学します。そこでもお父様の強引な命令によって、英会話研究を行うESSに所属することになります。
本当は大学で日本文化を学びたかったそうです。しかし結果として、この時に学んだ英語の実力が、のちの深見先生のインターナショナルな活動を大きく支える力になりました。
深見東州先生はESSでの活動を運命と悟り、徹底的に活動します。
3年の時には委員長(プレジデント)を務め、400人の部員をまとめながら組織改革を成功させます。
ディベート、ディスカッション、スピーチなど、複数のセクション全てに率先して励み、かつ他の大学との交流でも大きな話題になっていきました。今でも同大学サークルの伝説になっているようです。
そのあまりのエネルギッシュな活動や、超人的な能力が学内で話題になっていき、何人もの人が相談にやってくるようになりました。
ESS委員長時代には、 同志社付属女子高校のESSのコーチも引き受けますが、普段は優勝を争うにはほど遠かった女子高も、この年だけは当たり年で、全国英語弁論コンクールに出場する女子部員に、君は優勝するよ、君は3位になる、君は5位かなと予想したところ、その通りの結果になったというエピソードもあります。
そんなこともあり、深見東州先生のことを、本気で宇宙人にちがいないという人まで出てきたそうです。すでにこのころから、深見東州先生の超人的な能力の一端は発芽していたのでしょう。

大学時代も、本当は驚くようなエピソードがたくさんありますが、残念ながらこれだけで、他は割愛いたします。
植松愛子 (橘カオル) 先生との出会い
大学卒業後、建設会社に就職し東京に出てきた深見東州先生は、1年目からメキメキ頭角を現し、信じられないような営業力で受注を取りまくり、トップ営業マンに躍り出ます。
その営業のやり方は、菱研会員は特にたくさん聞いていますが、度胸と根性の塊のような営業であると同時に、相手をよく研究された成果でもあります。
ここでは詳しく触れませんが、興味のある方は、深見東州先生(半田晴久)著作のビジネス書を読んでください。実践的な、最強の営業方法が書かれています。
深見東州先生の凄いところは、営業などの実務能力だけにとどまりません。
その合間には、寸暇を惜しんで古今東西の古典、古書、古文献をことごとく読破するなどもされてきました。銀座にある道院紅卍字会の事務所に出向き、宗教的な求道研鑽にも励まれていました。

道院紅卍字会とは、ウィキペディアによると、『道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州において赤十字社に準ずる組織として活動した。略称として「紅卍会(こうまんじかい)」と呼ばれる』と書かれています。
関東大震災のとき、それがくることを予知していたかのごとく、真っ先に蓄えた支援物資を送ってくれたこともあるそうです。
現在、公益社団法人日本紅卍字会の名誉会長には、深見東州先生が就任されています。
この元となる道院という宗教団体は、これもウィキペディアによると、『主祭神 – 黎明期は、扶乩(フーチ、ふけい)に依る乩示(けいじ) を御信託とした天啓宗教で、修養方法等は道教の流れを汲んでいたとされている。宇宙の独一眞神を「至聖先天老祖(老祖)」とし、最上位の神体に準じて、老師(道教)、項先師(孔子の師、儒教の祖)、釈迦(仏教)、マホメット(イスラム教)、キリスト(キリスト教)とされており、加えて歴史的な聖賢哲人を祭祀する包括信仰団体である。一宗一派に偏せず万教帰一の思想とする。』ということです。
その道院は、出口王仁三郎の時代に大本と提携を結び、親密な関係を保っていました。
それもあるのでしょうか、当時は日本中の霊能者のサロン的な観もあったようです。
道院では、国士舘大学教授への招聘を固辞し、道のために生きた道院随一の碩学である根本宏氏から、多くを学ばれます。
そして、そこでも圧倒的な能力を発揮し、根本氏から、「もう私からあなたに教えるものは何もない。今度は、私があなたから教えられる番だ。山岡鉄舟を指導した滴川禅師が、鉄舟を指導する前と後では禅境が著しく激変したように、私もあなたを指導して大いに高められた気がする。君は『任天の導師』となる人に相違ない」と言われたそうです。

そうしてその数日後、昭和52年1月に、根本宏氏の仲介で、植松愛子(橘カオル)先生との出会いが訪れます。
植松愛子(橘カオル)先生と深見東州先生のお二人の出会いが、ワールドメイトの原点と言っても良いと思います。
深見東州先生は植松愛子先生を生涯の師と仰ぎ、一方では、現実界一本の厳しいお父様に激しく鍛えられながら、この先もあられもないような苦労と精進の日々が続きました。
深見東州先生が一般的な宗教家のイメージと違い、極めて理にかない、現実に即した教えを実践できるのも、現実界の常識を、ビジネスを通し、お父様との関係を通して、嫌という程叩き込まれた体験を積んでいるからでしょう。
実際にワールドメイトができるのは、この出会いから、さらに10年近くを経てからのことになります。
それまで勤めていた大和ハウスを退職し、植松愛子先生のもとでの修行が始まります。そこでは、宗教や神仙の世界だけに偏らず、しっかりと現実社会における基盤と実力を身につけていかれます。
様々な分野の仕事に取り組み、そのおかげで、多くの業界に精通することになりました。
最終的に26歳で起業した、教育事業のみすず学苑と、28歳から始めた時計事業がメインとなります。
34歳で、満を持して「神界からの神通力」を日本文芸社から発刊します。相当な反響があったようで、よく年には趣を変えた「強運」を発表します。こちらは最も売れた書籍になっていきます。
そして、その頃から、ワールドメイトの前身となる宗教活動が始まっていくのでした。
建築会社を退職し、終生の道へ
それでは、ここから先は、月刊誌「財界にいがた」が取材した「歌って踊るギャグ教祖、ワールドメイトリーダー深見東州の実像」という記事から、その一部を紹介します。取材は深見東州先生へのロングインタビューという形で長時間にわたって行われ、「財界にいがた」の2018年11月号、12月号、2019年1月号に3回にわたり、長編掲載されました。(数値などはその時点のものになります)
生涯の師となる植松愛子先生との出会い、そして大和ハウスを退職し、ともに行動されるようになって、会社を起こし、やがてワールドメイトへとつながっていきます。その部分を、紹介したいと思います。
自由経済、民主主義、グローバルな国際社会の時代において、宗教家としてどうあるべきか、ワールトメイトの活動の根幹となる部分にも触れている貴重なインタビューとなっています。
「人類を救うためです」といって大和ハウスを退社
編集部注釈大和ハウス工業在籍当 時、半田社員は営業マンとして猛烈に働く傍ら、限られた時間をやり繰りしながら神道の修行にも打ち込んでいたという。そして転機は訪れる。それは植松愛子氏 (ワールドメイトの開祖) との出会いにほかならない。
人に願いがあるように、神にも願いがあります。ですから「神様は私にどうあってほしいのですか ?」 お聞きしてたのです。 もともと、植松先生と私はそれぞれが受けた天啓に基づいて出会ったのです。大本教の出口直と出口王仁三郎が出会ったのも、全く私たちと同じように天啓によります。
私は25歳のときに「オマエを迎えに来る人がいる。 そこがオマエの終生の仕事場である。今の仕事は、そのための修業なのである」という天啓を受けていたのです。
これに対して、植松先生は42歳のときに「笛吹童子がやって来る。その人物に神様から受けた神法を授けると、その人が全てをうまくやってくれる」との天啓を受けていたのです。
とはいえ、植松先生は「今の世の中に笛吹童子なんているんだろうか ?」と半信半疑だったそうです。
一方、私は大学時代から森田流の能の笛をやっていましたので、東京の麹町にいる先生のもとで月3回練習をしていました。
いうまでもなく当時、私は大和ハウスの営業マンで、荒川のほとりに会社の社員寮がありましてね。寮の中で笛を吹くともの凄い音量なので、迷惑だということで、仕事が終わったら荒川に架かる橋の下で、 練習していたのです。能楽堂のように、音の反響が心地良かったからです。
先輩たちも私がそこで練習しているのを知っていて、「荒川の笛吹童子」というあだ名で私のことを呼んでいたそうです。私は、いつでも練習できるように、営業カバンの中には常に能の笛を入れていました。
植松先生に初めてお目にかかったとき、先生いわく「伊豆山で、天神様からこういう啓示をいただいた」ということで、その漢詩風の神示を、七言絶句の詩吟で詠まれました。
植松先生の、その詩吟の節回しが非常に素敵だったものですから、「では、私が笛で会釈を・・・」といってカバンから能管を取り出して吹き始めたところ、先生が驚いて言ったのです。「笛吹童子って本当にいたんだ !」と。
私は「なんですか ?」というだけで、植松先生が驚いた理由がまったく分かりませんでした。理由を縷々聞かされましたが、植松先生も私もお互いに「本当にこれが天啓によって導かれた人なのか ?」と半信半疑でした。二人が「この人で間違いない」と確信するまでには、2ヵ月かかりました。
――そしてダイワハウス工業を退社するのですね。会社には何年お勤めになられましたか ?
1年くらいです。
――超が付くほどの成績優秀な営業マンです。退社を申し出たときには強く慰留されたことでしょう。
おっしゃるとおりです。上司から「オマエ、なんで辞めるんだ ?」と尋ねられたので、「人類を救うという目標に向かって行きたいんです」と答えたら、「オマエは変な奴やなぁー」と 言われましたよ。
わずか1年でしたが、天啓を受け、 未来が予知できる営業マンなので、そりゃ、人間離れした成績は残せますよ。会社勤めを通じて植松先生に出会う前に、すでにたっぷり度胸試しができていましたので、今こうして米国のクリントン元大統領や安倍総理、英国のトニー・ブレア元首相などの大物とも、普通に接することができるわけです。
これを私は「富士山の理論」と呼んでいまして、地上から見れば4階や5階にいる人は仰ぎ見るような存在です。しかし、神います富士山から見れば、4 階も5階も平屋もみんなマッチ箱にすぎませんからね。
「新潟のみなさん、私は “宗教界の上杉謙信” です」
編集部注釈サラリーマン生活にピリオドを打ち、開祖・植松愛子氏と行動を共にするようになって以降、天啓により、深見氏はさらなる指針を求めて全国各地を訪ね歩く。
私は宗教家として、これからの時代を、どのように生きていったらよいのか常に自問自答しています。そして、先人に思いを馳せ、もし親鸞が現代のような自由経済で国際的な時代に生きていたら、もし法然が生きていたら、空海が生きていたら、最澄が生きていたら、お釈迦さんやキリストさん、孔子、老子がこの社会に生きていたらどうなさるだろうか、といつも考えています。
求め求めて東北に何かが隠されていると植松先生に天啓があり、「米」という字が現れたそうです。東北で米という字がつく所は、米沢だと確信したのです。ところが、米沢を訪れ、 亀岡文珠菩薩などいろんなところに行きましたが、どこに行っても神は降りてません。でも、せっかく来たのだから、上杉謙信のお墓にお参りに行こうということで、上杉神社を参拝したのです。
すると目の前に肉体のない、片目を金色に光らせた真っ黒な霊がいたのです。黒い霊は、欲深い人の霊といわれています。 私には、瞬間にそれが伊達政宗の霊だと分かりました。なぜ上杉神社に伊達政宗がいるのか ? すると神社の奥に真っ白な清々しい武士がいて、それが上杉謙信だったのです。
それから、上杉謙信のお墓に行ったら、その亡骸は大きな甕に入ってるんですね。そして、甕の上に天からベージュ色のピアノ線のようなものが降りてるのです。エネルギーの根源が、上杉謙信の亡骸に降りてきたことをどう受け止めたらよいのか、私は「オマエは上杉謙信のように生きていけということなのですか ?」と神様に問いかけました。
すると、神様は「そのとおりだ」と。米のマークは、古代のメソポタミアでは、✳ (カミ) を表します。だから、画家のミロは、 必ず絵に「✳」マークを描いたのでしょう。米は日本人のエネルギーの根源ですが、十が陰陽重なって✳マークになるのです。つまり、私が上杉謙信のように生きれば、全ての事柄において、エネルギーの中心になるという事なのです。
上杉謙信は信心深くて、比叡山に行って出家しようとしたら、家臣が「景虎さんが出家なさると上杉家が滅んでしまいます」といって泣いてすがり、結局のところ連れ戻されました。
謙信にしてみれば、出家もできない自分の境遇をいったいどう受け止めたらよいのかと苦悩したのです。なぜならば戦国の世は人を殺さなければ国を守れません。そんな時代に、殺生をしてはならないという仏者の道は相反しますよね。
しかし、自分が出家していなくなったら上杉の民はみんな支配下に置かれて、奴隷になったり殺されたりしてしまいます。そんな悲劇が起きないように、上杉の民を守らなければならないということで、上杉謙信は一生涯にわたって妻帯しないと発願したのです。
つまり、自分はお嫁さんをもらいませんし、子供もつくりません。義のためにしか戦いませんし、守るためにしか戦いません。その代わり、戦に勝たせてください、そして上杉の民が守られますようにと、神にお願いしたのです。
このように、僧侶でありながら武士もやっているのが上杉謙信で、反対に武士でありながら僧侶もやっているのが武田信玄なのです。作家の海音寺潮五郎は、武田信玄を主人公とする歴史小説を書くために、宿敵の上杉謙信について調べていくうちに、謙信のほうがよほど純粋で魅力があることに気付き、上杉謙信が主人公になる物語を書き上げたのです。 それが「天と地と」です。
上杉謙信の「敵に塩を送る」という精神に象徴されますが、謙信には戦は領土欲のためにするのではなく、義のためにするものだといった考え方があり、だからこそ、神仏が守ってくださり、戦に勝つことができたということなのです。
――「上杉謙信のように生きろ」との天啓を受けた深見先生が、生涯独身を貫いていらっしゃる理由が分かりました。
そうなのです。上杉謙信ゆかりの地の新潟にお住まいのみなさん、私は上杉謙信と同じ道を歩んでいます。私は “宗教界の上杉謙信” なのです。
編集部注釈といって深見氏は冗談めかして笑ってみせた。
「オマエは上杉謙信の道を歩むのだ」との天啓を受けた深見氏は、改めて神に問うた。
「人に願いがあるように、神にも願いがあるといいます。神様は私に対してどのような願いをお持ちですか ?」
これに対して神はこう答えたという。
「第一に、一生独身でいてほしい。第二は、どんなに仕事が忙しくても神業を第一としてほしい。 第三は、文化と芸術を極めて魂を磨いてほしい」
「聖と俗」― 宗教活動と経済活動を区別し、共存させる
――上杉謙信は戦国時代を 生きましたが、深見先生が生きる今の時代はそれとは異なります。
上杉謙信が戦国時代を生きたのに対し、今の世は経済戦線の時代ですから ね。僕の場合は上杉謙信の道、神人一体の道をもって会社で苦しんでいる人を守り、国を守ろうという高貴な気持ちでやっているわけです。
だから、僕はその分だけ、朝から晩まで35歳から一日も休むことなく、32年間無休です。日曜・祭日・ 元旦、夜昼も関係なく無休です。風邪を引いても休まないし、入院して手術しても、麻酔が解けたら病院で仕事をしてます。ずっと勉強をし、仕事をし、新しいものを追求し続けていますよ。これにより文化にしても芸術にしても、滅茶苦茶あらゆることができるようになったのです。白隠禅師のように、 禅僧には一生休みはないですからね。
禅僧は労働者じゃないし、労働基準法も関係ないし、休みたいとも思わないし、お休みの概念もない。境地を高め、境地を磨くのがお仕事ですから。だから、肉体を休息させる事はあっても、休みやホリディーというのは存在しないのです。膨大な仕事の中で、白隠禅師の言う「動中の静」を磨いてるので す。
私は25歳で2度見性し、今までに5度見性してる禅僧でもあるのです。しかし、それは自分自身の宗教家としての生き方であって、弟子であっても会社の従業員となると、労働法や労働基準法は遵守してます。
それにしても、宗教の道を極めるにあたり、神様の思し召しに従って独身を貫き、本当に良かったと実感しています。 破戒僧として、庶民を救うために嫁さんを持って、子供もつくって、最下層の人たちを救った親鸞聖人の逆を行ってるわけです。上杉謙信もそ うだったと思いますよ。
外国の人たちに自己紹介するときには、私は嫁さんもいないし、子供もいないし、愛人もいないし、ボーイフレンドもいないし、羊やヤギもいないし、人形 (ドール) もありませんと言ってね (笑)。
人形ってアレ、捨て場に困るみたいですね。本当に (笑)。あるとき静岡の修善寺の竹藪で、「全裸女性の遺体を発見 !」とマスコミが報じたら、後から「間違いでした、人形でした」というのがありましたね、「南極2号」とかいう、あの人形ですよ (笑)。
――「下ネタで笑わせる宗教法人の教祖がいらっしゃるとは・・・(笑)。経済戦線の時代に生きるというだけあって、 深見先生も宗教活動の傍ら、会社を経営されていますよね。
上杉謙信が神に誓いを立てて、その代わり仏様の法力をもらったように、私も神様から神通力と閃きを受けて経済戦線の中を生き貫いて、100円の有り難み、1万円の尊さを知ることによって人々の喜びや苦しみ、悲しみを知り、真の教えを導き出そうという考え方です。
編集部注釈深見氏が経営するグループ会社のひとつに経営コンサルティング会社の菱法律経済政治研究所 (菱研) がある。 現在、会員数は約5000人。 このうち中小企業のオー ナー経営者が約700人を占めるという。
私は菱研の企業活動を通じて、定期的にセミナーを開き、経済書やビジネス書を書いているわけです。 それは信仰に基づくところで、経営者がどうやって孤独と困難を乗り越えるかを考えるときに、神道は教理というドグマがないので、ビジネスと融合できるのです。
出光興産の創業者・出光佐三氏は宗像大社を熱心に信仰していましたし、西武グループの創業者・堤康次郎氏も箱根神社の熱心な信者でしたし、息子の義明さんは九頭龍神社をつくりました。
だから、お兄ちゃん (堤清二氏) がダメでも弟 (義明氏) が大丈夫だったのは、九頭龍さんの守護ですね。しかし、義明さんも、 あまり箱根神社や九頭龍を熱心に敬わなくなったら、だんだん落ち目になったのです。小田急グルー プと戦った「箱根山戦争」のときも、西武グループが勝ったのは、当時九頭龍神社を建てて箱根神社をしっかり信仰していたからです。
堤康次郎氏は水商売のママが東京に進出するときには、「必ず箱根神社に参拝しなさいよ」とアドバイスしていたといいます。 また松下電器の創業者・ 松下幸之助氏は「根源の社」という神社をつくっています。「宇宙の根源」を大事にする神社です。
実際のところ、松下氏 が電気分野に行ったのは、 辯天宗の宗祖から「松下さん、これからの時代は電気だ」とアドバイスを受けて、そちらの道に進んだそうです。つまり、経済活動と神道という宗教活動は、はっきりと区別した上で、共存できるということなのです。
普遍性のある宗教を目指し、世のため人のために尽くす
ほかにも協和発酵工業の創業者・加藤辨三郎氏も在家仏教の熱心な信徒でしたし、東芝を再建した土光敏夫さんも法華経を通じてパワーをチャージしていましたよね。
僕が大和ハウス工業の社員だった当時に、エスエス製薬の泰道照山氏の自宅を夜訪したことはすでにお話ししましたが、あの方はもともと本名が泰道三八で、天台宗に出家して照山に改名しました。
このように事業家の中には、孤独や困難にぶつかったときに、どうやって心を支えるかということで、宗門宗派に縛られることなく柔軟に信仰している人たちが非常に多いの です。同時にこうした人たちは、宗教と経済活動を区別して共存させているから、何の矛盾もないのです。
たしかに仏教は本来そうではありません。現世に価値を置かない、完全な脱俗であり、出家思想です。 それが、聖徳太子から神道の先祖崇拝と、神道の在家尊重 の「維摩経」、女性尊重の 「勝鬘経」、社会繁栄の「法華経」により、神道化が進 んだのです。
聖徳太子の選んだ三経義疏とは、まさに仏教を神道化させ、日本社会に根付かせたものなのです。こうして、神道に基づく日本化された仏教の高野山や天台宗だからこそできるわけです。 仏教は神仏習合化しましたが、経済人は区別して共存しており、混同はいっさいしないということです。もちろん経済的にも法的にもです。
それが、本来の神道の精神であり、「区別して共存する」精神により、日本文化に多様性と寛容性をもたらしてるのです。そもそも神道の祝詞である「生業緩むことなく、家門高く富み栄え、いかしやくわえのごとく、うまはり栄えていく」というのは、 桑の葉っぱが繁茂していくよう栄えますように、と祈っているわけです。
生業が栄え、家が栄え、コミュニティーが栄えて、従業員も栄えていくというのが、神道という宗派ですから、企業経営者をはじめとする、経済活動を行う者にとって、神社の神様は何ら矛盾なく信仰できる対象なのです。
これと同じ主旨を持つ宗教が、ユダヤ教なのです。 戦前戦後に、日ユ同祖論が盛んに言われたのも、無理からぬ事なのです。「相撲」という言葉も、へブライ語の「スウーモ」から来てるぐらいですから。
――ワールドメイトが宗教法人として目指すところは ?
民衆を救い、教化するために、今の時代を反映し、かつまた時代を超越した普遍性のある宗教目指 しています。
弘法大師さんの時代、すなわち平安時代は貴族文化の時代であり、それを空海や最澄が中心となって密教の時代にしたのです。 密教の法力により、390年間内紛もなく外敵も来なかったのですね。だから平安の時代だったのです。
一方、私の宗教家としての在り方は「空海が今、生きていたらどうするか」を常に考えているわけです。米国のブッシュ元大統領やクリントン元大統領、オバマ前大統領、安倍総理などを通じて、とくに何かを広めようというのではなく、一瞬の会話の中で、霊的に感化されて行けばいいのです。
また、内的な、英語でいえばコンパッション (他人への思いやり) 、世のため人のためにやろうというものが共有でき、理解し合えたらいいと思います。
空海はまさに密教と万能の芸術と文化人の在り方で、日本の平安時代をつくったけれども、私は世界中のVIPが文化性と芸術性と、貫き通している社会への貢献というものに共鳴し合って交流しているうちに、人々が感化され、幸せになればいいと考えています。
実際のところ、私に会うたびに運が良くなっている人たちは多く、たとえばゴルファーなら優勝したりしてね。(女子ゴルフの) チョン・インジ、リディア・コ、ミンジー・リー、 チャーリー・ハル、酒井美紀、男子なら、谷原秀人、リー・ウェストウッド、小平智なども、私と会ってから復活して優勝しました。それは、いつも彼らの幸せを祈ってるからです。
とくに宗教や神の話題にならなくても、一緒に食事しながら普通に話している間に感化されていって、一人でも多くの人たちが大事な役割を果たして、 世の中を良くしてくれたらいいわけですよ。
空海も真言密教の信者だから言うわけではありません。それは、空海の「弁顕密二教論」や「十住心論」、「秘蔵宝鑰」などで述べてる如く、顕教と密教は共存できるのです。何教の信者でも、密教はやれるし、共存できるのです。
空海は当代一の文化人であり、密教の時代をつくった人が平安時代をつくった原動力なわけですから、私はそれを世界的にやっているだけのことな のです。
――ところで深見先生は、 未来を見通すことができるのですか ?
過去も現在も未来も、見ようと思えば見ることができます。しかし未来を見すぎると、何かするのが嫌になってしまいますからね、 必要最小限度の未来しか見ていません。
たとえば神通力であれば、25歳のときに2度見性し、六大神通力が何でもできるようになりました。それから、5度見性し、天上界と現世の間を自由に行ったり来たりもできます。 しかし単に、このようなことができる一霊能者で終わってしまっていいのか、というのが神の思し召しです。
霊能力の最高峰は何かといえば、それは芸術です。神なる音楽や詩、絵画、演劇などに表現された、人類の高いレベルの文化を理解し、表現できるシャーマニスティックなものこそが霊能力の最高峰といえます。
そして、世の中の人々を救い、幸せにする霊覚や慈悲、志、自在性こそが霊能力の最高峰なのです。当てものをしたり、あれが見えるというのは、下のほうの霊能力なのです。
しかしながら、「現実界では、年季と経験と年齢を重ねないと社会は認めてくれませんよ」という、植松先生の教えに従い、私もこうして40年以上修行をしているわけです。もちろん今もね。そして、修行は死ぬまで続き、死んでからも続くのです。
究極の目標は、日本を中心とした世界平和の実現
――修行は死ぬまで続くということですが、深見先生ご自身の宗教家としての到達度はどのくらいだとお考えですか ?
たとえば著書を見ても、私はこれまで本を290冊書きましたが、全然足りませんね。宗教に関する主なものは10冊くらいで、だいたい網羅できていると思いますが、ビジネス論、芸術論、絵画の本、小説、音楽の本など、あらゆる本を生み出していますが、まだまだ足りません。おそらく60歳ぐらいまでが下積みで、最近ようやく認められるようになって、ボチボチといったところです。
宗教家というのは、50歳、60歳は洟垂れ小僧でね、70歳、80歳、90歳になって、ようや長老といわれて重んじられるので、一般の人たちが活躍するよりも、20歳から30歳年を取ってから認められます。だから70歳以降ですね、宗教家としての真骨頂はきっと 。
――ワールドメイトの会員 (信者) は公称8万200人。会員さんの年代は ?
最も多いのが30代後半から40代前半の会員さんたちです。他の宗教法人に比べても、ワールドメイトの会員さんたちはかなり若いと思います。会員数は毎年微増で推移していることからも分かるように、ワールドメイトは拡大主義ではありません。
なぜかというと、我々は会員さんにとってワールドメイトが良ければそれでよし、反対に嫌だったら辞めてどこか好きな別の宗教に行けばいいと考えているから、あえて拡大路線を第一にはとっていないのです。
だから、僕らのこうした「明るくて、派手で、面白い神道で、怪しい宗教家です〜というメッセージに面白いなと感じる人は入信したらいいし、嫌なら辞めて別の宗教に行ったらいい。どこも信仰する宗教がないよりは、ワールドメイトではなくても、どこか信仰対象があったほうがずっといいと思います。
――誰しもが、どこか信仰 する宗教を持ったほうがいいということですね。
おっしゃるとおりです。 そのあたりをお話しする前に、世界中のさまざまな宗教家が対話を通じて国際平和を目指す「宗際化運動」についてご説明する必要があります。
国内外を問わず、さまざまな宗教団体は「自分の宗教が一番素晴らしい」と考 えているわけですが、コミュニケーション手段や交通、文明の発展などに伴い、「よくよく相手の話を聞いてみたら、どの宗教もだいたい同じようなことを言っている」ことが、分かってきました。
それぞれの宗教に若干の違いがあったとしても、やはり愛や悟りは尊いし、殺戮は良くないし、核兵器は廃絶すべきだし、貧困を救い、弱者を救う事は大切。また、争いをなくすためには、理解と忍耐と互いの尊敬が必要だと、だいたい同じようなことを言っ ているわけです。
そこで、世界各国の宗教団体が参加するWCRP (世界宗教者平和会議) が 組織されました。立正佼成会の庭野日敬さんと金光教の三宅歳雄さんが協力してWCRPをつくった のです。
WCRPの設立により、それぞれの宗教の違いを尊重しながら共通項を理解し合い、ひいては核兵器を廃絶し、差別をなくしていこう、人々を貧困から救っていこうという平和活動が始まりました。これを宗教の枠を越えた「宗際化運動」と呼びます。
さらに、今から50年ほど前に国連に同様の趣旨のTOU (理解の殿堂) ができたほか、ユニタリアンの自由教会がIRF (国際宗教財団) を、また、大本教は「万教同根」思想の人類愛善会、比叡山は宗教サミットなどを行いました。
そして、立正佼成会の庭野さんとPL教団の御木徳近さんが協力して新宗連 (新日本宗教団体連合会) をつくり、宗際化運動はますます盛んになりました。
この新宗連は端的に申し上げれば、アンチ創価学会です。新宗連には4本柱がありまして、私たちワー ルドメイトもこの考え方には大賛成です。
新宗連のスローガンも、 年月と共に言葉や表現は変化してますが、基本は同じです。その1つ目が、「信教の自由」。我々ワールドメイトは国策によって、検察や税務署によって信教の自由を平気で侵されるという理不尽な目に遭わされました。この一件は、すでにお話しさせていただいたとおりです。 信教の自由は何にも増して保障されなければなりません。
2つ目が「政教分離」、そして3つ目が「宗教協力」です。 この2つについては詳しく述べませんが、全くその通りで、大賛成です。 しかし、実は4つ目が非常に大事で、「国民皆信仰」が掲げられているのです。 これは、文字どおり、すべての国民が信仰をすべきだという考え方です。
具体的にどういうことかというと、ひとつの宗教団体に入って満たされなかったら、別の宗教に行く。それでも満たされなかった場合には、また別の宗教に行き、「自分に合っているな」と思うところに行けばいいじゃないか、という考え方です。
これだけ国民が多いのですから、そもそも一つの宗教団体ですべての人たちを吸収できるはずがないのです。なぜ信仰する宗教がないより、あったほうがいいかというと、孤独や絶望や死に直面したときには、信仰する宗教があったほうが、救われるという考え方に基づきます。
家族や身寄りがなくても、病院やアパートで死を迎える時にでも、神仏への信仰があれば、絶対的な孤独はなく、死の恐怖も超えられるのです。そして、私の究極的な目標は、宗際化運動を通じて、日本を中心とした世界平和を実現することに尽きます。





