深見東州 (半田晴久) 氏のさまざまな活動に参加してきたワールドメイト会員が案内します

深見東州氏の幼少期からワールドメイトが誕生するまで

Fuziwara


ワールドメイトが誕生するまでの歴史について、著作やメディアでの掲載、直接ワールドメイトで聞いた話を元に書いています。

深見東州先生の幼少時代

深見先生のお父様は、特攻隊上がりの正義感の強い方で、戦争中、一週間後に出撃という時に終戦を迎えたそうです。

復員後に深見先生のお母様となる方と結婚され、上官よりかねてから学歴が大事だと聞かされていたこともあり、勉強を始めます。

そして関西学院大学の経済学部に首席合格し、2番で卒業するほどの優秀な頭脳の持ち主でした。

ところが、在学中に左翼思想に傾倒し、学生運動に明け暮れます。無罪にはなりますが、一度未決の牢屋にも入ることになります。

その頃母親のお腹の中にいたのが深見東州先生だったそうです。

今では笑いながら、格子戸を見ると、どうも腹が立つんですよね、胎教が悪かったんですね、などジョークのネタにされてますけどね。

お父様が大学3年の、1951年3月18日に深見東州先生は誕生されました。

当時、お父様は学生自治会長などもしていて、子持ちで左翼であることが災いし、卒業後、企業への就職がままならなかったそうです。

政治家の秘書になり、左から右まで経験し、両方に絶望されたそうです。そして政治家を目指し(地方選挙)立候補するものの次点で落選します。深見先生が高校2年の時のことです。

深見東州先生が小学校の頃の話に戻りますが、お父様は元来気性が激しい方で、お母様もひどい目にあい、苦労され、家庭内は争いが絶えなかったそうです。

頭が良く、ケンカに強く、超ワンマンで商家の悪習である飲む打つ買うの人だったそうです。

そのためまともに家で食事もしたことなく、お父様から逃げ回る日々で、一家団欒などは、ほとんど経験したことがなかったと言われていました。

深見東州先生は、普通の家庭が羨ましかったと本に書かれていました。そして、いつも「母を助けてください」と真剣に神様に祈っていたそうです。

妹や弟のためにも祈っていて、深見東州先生の祈りの習慣はそこから始まったとのことです。

深見東州先生のお母様は信心深い方で、そういう環境のなかで、世界救世教に通うことになります。しかしお父様は、「宗教は阿片だ」と言い、全く許してくれない状況でした。

小学校5年の頃、お母様が深見東州先生のために、お守りをもらってくれることになったそうです。

深見先生はそれが無性に嬉しくて嬉しくてしょうがなかったそうです。すでに天命を無意識のうちに自覚されていたのでしょうか。

ところがお父様が、お母様が身につけているお守りを引きちぎってしまい、深見東州先生のお守りの話しも中止になります。それが悲しくて3日間も泣いた記憶があると、著作に書かれていました。

深見東州先生の中高時代

深見東州先生の中学1年の頃のエピソードですが、当時の日記に「昔の偉人たちは皆人類のためになる遺産を残して死んでいった。この世には、その遺産がどんどん増えていくのだから、未来はきっと理想の素晴らしい世の中になるに違いない」という意味のことを書き、学校の先生から感心されたというものがあります。

何も偉人に限らず、普通の人でも、これだけは残したいと思って取り組んでいる人は多いと思います。そういう良いものがどんどん積み上がっていけば、良いものが集まった世の中になっていくはずです。

それで単純に、いつか必ず人類の理想の世の中がやってくると思ったそうです。

中学生でそこまで思うのは珍しいかもしれませんね。

余談ですが、私も小さい頃、漠然としたすばらしい世の中になっている夢や想いを描いていたことを思い出します。ただ言葉や文章でそれを人に伝えるなんてことは考えたこともありませんでした。

少年少女の頃に、そういう理想の世界を夢みていたという人は、ワールドメイト会員にも多くいますけど、やはりほかの人には言わなかったようですね。

深見東州先生は高校入試の前までは、家庭内の不和もあったせいか、あまり家に寄り付かず外での遊びに夢中になっていたそうです。

このころの楽しい遊びのエピソードは、ワールドメイトでもよく話されています。

そして中学では先生から、「君が(高校に)合格するなら、全員が合格する」などと言われてしまったそうです。

学業は最下位に近い成績だったそうですが、その言葉を聞いて、「皆が合格するためには、自分が合格しなくてはならない」と考えたそうです。

とても前向きな捉え方ですが、そうなるために勉強し、成績が上位に上がっていきます。

そして、県立鳴尾高校に入学することになります。

高校に入学した直後、深見東州先生15歳の4月8日、世界救世教に入信します。

4月8日はお釈迦様の降誕日ですが、その日が宗教活動の始まりとなります。

入信のきっかけは、家庭もよくなるし、健康もよくなるよと、世界救世教の支部長さんに言われたからだそうです。

深見東州先生の場合、小さい頃から神様のことが大好きで、一人で神様に向かって祈っていたほど、神様なしでは生きてはいけないと思っていたそうですす。

すでに信仰力の土台ができていたのでしょう。

そうして深見東州先生は、自分には神様の道しかないと自覚されるようになります。神の道を貫き、世の中を良くして理想社会を実現したいとの決心を固めていかれます。

ワールドメイトへとつながる信仰の道

当時の宗教体験のエピソードに、世界救世教のお守りである「お光」を授かり首にかけていると、翌日、胸に激痛を感じて教会に駆け込んだことがあったそうです。

すると、お守りを外した胸の部分の皮膚が、火傷のように赤く腫れ上がっていたそうです。

また教団には、人の嫌がることが最も功徳が高いという教えがあり、毎朝登校前に、必ず支部に寄って便所掃除の奉仕を行ったそうです。

そうしたある日、妹さんが手にイボができて悩んていました。そこで「イボイボ移れ」と深見東州先生が言うと、妹の手からイボが消滅し、代わりに深見東州先生の手にイボができたそうです。

とても痛かったそうですが、3か月くらいすると突然消えてしまいます。これは奉仕活動をやっていた功徳だと感じ、感謝したとのことでした。

深見東州先生は、高校では生徒会の活動が忙しく、世界救世教の支部では学生部を結成して熱心に活動していました。

学生部では最初は一人で頑張っていましたが、その熱心さを見た素敵な女学生が応援してくれるようになり、その女性のおかげでたくさんの学生が集まったという話も聞きました。

そして、これもワールドメイトで何度も聞いたお話ですが、高校2年の頃に、年4回の熱海聖地参拝をやり遂げたそうです。

ちょうどその頃は、お父様が選挙に落選した直後で、ずっと家にいる状況の中、家計も火の車だったそうです。「神様なんて非科学的なことは言うな」というお父様の厳しい視線がある中でした。

深見東州先生は、聖地参拝は神様に対する義務という純粋な気持ちで、絶対に行かなければいけないと思っていました。そして奉仕活動を続けていけば、なんとか行けるようになるはずだと信じていたそうです。

1回目の聖地参拝は、お母様がお金を工面し、行けるようになったそうです。ただ、恐いお父様に見つかると大変なことになるので、それをどうするかでした。

聖地との移動の間中、とにかくひたすら、祈り続けたそうです。絞り出すように、「神様がいるのなら絶対に見つからないようにしてください」と、魂の底からの祈りでした。

留守中、非常に直感の鋭いお父様に、あわやバレそうになりますが、家族の機転を利かせた連携プレーのおかげで、弟を深見先生と勘違いし家にいると思い込み、難を逃れ1回目は無事に参拝することができました。

ところが2回目の聖地参拝のときは、お金が捻出できず、行くことができない状況でした。

しかし必ず行けると信じて、ますます熱心に奉仕活動を行っていると、出発3日前に奇跡が起きます。

女性の支部長さんが、深見東州先生の熱心な様を見ていて、「私には子供がいないから、あなたを自分の子供だと思って、行かせてあげます」と言われて旅費を出してくれたそうです。

深見東州先生の大感動は言うまでもありませんね。

そのようにして、とうとう年4回の聖地参拝を、高校2年生でやり遂げたのでした。これによって信仰力に自信を持つことができたそうです。

これらの体験談は摩訶不思議な内容ではありません。他人からすると、たまたま運が良かったのだろうと感じる人もいると思います。

しかし当人たちにとっては、奇跡としか思えないような証によって達成できたのです。

他人からすると小さなことかもしれませんが、困難な中で必死で祈り、神様が動かれたという実感は、本人にはわかるものです。

ワールドメイト会員も、似たような経験を積み、奇跡としか思えない体験を、多くの人が持っています。

浪人生活を経て、大学へ入学

スポーツニッポンに連載された、自らの半生を語った「アカスリ半田劇場」に、鳴尾高校時代に生徒会に入って活動していたことが書かれていました。

同時に書道部に入り、のめり込んでいたことの記述もあります。

入部のきっかけは、一通のラブレターを女子生徒からもらったことから始まります。

とても素敵な人だったそうですが、ラブレターへの返信を便箋8枚に綴りますが、相手からの返事がなかったそうで、フラれてしまいました。

もっとスマートに、お茶にでも誘へばよかったと、当時をふりかえって言われていました。

その時に文章力の無さと字の汚さを感じ、日記を書くようになり、綺麗な字をかけるようにと書道を始めます。

しかし字は上達したものの、大学試験には失敗し、浪人生活が始まります。

この時期には、いろいろなことがあったそうですが、まず、深見東州先生の熱心な活動を知った世界救世教の教会長(支部長の上に立つ人)が、深見先生を教会直属にするよう支部長に命じたそうです。

これまでお世話になった女性の支部長さんは、神様への純粋な信仰に全てを捧げている、神様が全てという方だったそうです。

それに対し、その教会長は男性で、広く社会性を持った考え方をする方だったそうです。

深見東州先生に対し、「神様、神様というのもいいけれど、日常の生活が基本ですよ。あなたには、お父さんとの葛藤があるようだけど、まず家庭をよくしなければいけません」と言われたそうです。

先は長いのだから学生のうちは勉強をしっかりして、親あっての自分なのだから、親孝行しなさいと諭されたそうです。

この教会長の言葉に、ガツンと頭を殴られたような気持ちになったそうです。

家族のために神業をやっているつもりだったのに、結果的にそれがお父様の神経を逆撫でしてしまい、新たな対立の火種になってしまっていること。

反発ばかりして、親孝行などは何もしていないこと。ミロクの世という、理想の世界を作るんだという夢に生きてきたけども、一番身近な家庭での争いと葛藤の原因を作っているのが自分であると気がついたそうです。

人類全体の幸せといっても、その一歩は自分の家庭からだと気がつき、それ以降、お父様から何を言われても逆らわずに、素直にいうことを聞き、頭を下げるようになったそうです。

それでお父様も、息子の態度がガラッと変わったので、さすがにおかしいと思い、その理由を聞いたそうです。

それで深見東州先生は、その教会長のお話を聞いて心を入れ替えたことをお父様に話します。

すると、こんな素直な良い息子になってくれたのは初めてだと、お父様は大感激し、「お前がそんなにいい子になるようなところなら、わしも信心させてもらわなきゃいかん。そして教会の先生にもお礼を言わんとな」と言って、驚いたことに翌日入信されたのでした。

そうやってお父様も入信し、熱心に活動をされていたそうです。

しかし、その教団で大きな裁判ごとが起きたとき、義侠心の強いお父さまが渦中に入り、良かれと思ってしたことですが、逆に悪人にされてしまったそうです。

それで嫌な形で辞めることになります。

深見東州先生の信仰心は何があっても変わりませんが、お父さまは宗教団体の嫌な面を見たとのことで、こんなことに引っ張り込まれたのもお前のせいだということで、再び第2の迫害が始まります。

しかしもう、深見先生がお父様を憎むことはなかったそうです。

それから、もう一つ大きな出来事として、大本との出会いがありました。

そのきっかけは、お母さまが病に伏されたことに始まります。医者の診断では、どこといって悪いところはないということです。

他の人から、医者の範疇ではないのかもしれないとのアドバイスがあり、それで大本の宣伝師のことろに出向き、お取次をしてもらったそうです。

するとたちまち病状が回復したので、お礼にと、その宣伝師の師匠に当たる松本マツ子氏を尋ねて行ったそうです。

松本マツ子氏は、大本屈指のシャーマンと言われた有名な方です。

松本マツ子氏は出口王仁三郎、出口すみ、出口日出麿と仕え、第2次世界大戦中は、牢屋に収監されていた出口王仁三郎からの、「6大都市はすべて空襲で焼かれる。大本信者は皆、即刻疎開するように知らせよ」との命を受け取り、奔走したこともあります。

そのため多くの信者が救われたそうです。

不思議なのは、深見東州先生が大本の神戸分苑を尋ねる前、出口直日3代目教主が、当時全国を回って布教活動をしていた松本マツ子氏に、神戸に分苑を作りなさいと命じたことです。

理由は一切聞かないでと言われ、なぜ神戸に分苑を作り、神戸地区を受け持つことになるのか松本マツ子氏もわからないまま、そうされていたそうです。

しかし、そのおかげで、深見東州先生にとっては、大本屈指のシャーマンである松本マツ子氏との出会いがあり、そこで多くのことを直接学ぶことができたのでした。

その後も、出口京太郎氏から、「大本の中にも、狐だ、タヌキだ、霊だと言っている人がいるが、いつまでもそんな話をしているようじゃ本当の宗教とは何かを見失ってしまうよ」と諭されたことがあったそうです。

その言葉で、広くて大きな宗教的社会性に目覚めたそうです。

大本との繋がりは、大学を卒業した後も、しばらく続いていきます。

それから深見先生が大学受験に失敗し、神戸で浪人生活を送っているときのこと、高校時代に深見先生をフッたあの女性が、再び近づいてきたそうです。

ところがまた突然結婚してしまい、またまたフラれてしまいます。それで深見先生は、周囲も驚くような読書家に変身します。

悶々とした葛藤を経験したゆえに、哲学や文学に走ったのか、目覚めてしまったのでしょう。一日一冊読むほどの勢いで、浪人時代には本を読んでいたそうです。

ここまでの深見東州先生の信仰体験やお父様との相克は、本当はこんなものではなく、もっとものすごいことがたくさんありますが、ここには書けないような内容なので割愛しています。

そのお父さまとの間における、あられもない葛藤、苦しみを通じて、深見東州先生の不動の信仰心ができあがっていったのでしょう。

また、厳しく鍛えられたことにより、常識の世界においても、相手を納得させることができるだけの実力を身につけることができたのでしょうと言われていました。

深見東州先生は、常識の社会に通用するようでなければ、神様ごとをやってもなんの意味も無いと言われています。

現実世界に通用しないただの神様狂いでは、社会的にダメになるのがオチであると、はっきりと言われています。本当にその通りだなと思います。

その後の大学時代、社会人になったあとも、深見東州先生の試練はうんざりするほど続きます。

あたりさわりのない部分だけしか書いていませんので、十分には伝わらないと思いますが、深見東州先生は、それらの試練を神様の大愛による神鍛えと受け取り、不動の信仰力を身につけ、大きな器の人物になられたのだろうと思います。

同志社大学時代、ESSでの活動

生まれ育った西宮を離れ、大学は京都の同志社に入学します。そこでもお父様の強引な命令によって、英会話研究を行うESSに所属することになります。

本当は大学で日本文化を学びたかったそうです。しかし結果として、この時に学んだ英語の実力が、のちの深見先生のインターナショナルな活動を大きく支える力になりました。

深見東州先生はESSでの活動を運命と悟り、徹底的に活動します。

3年の時には委員長(プレジデント)を務め、400人の部員をまとめながら組織改革を成功させます。

ディベート、ディスカッション、スピーチなど、複数のセクション全てに率先して励み、かつ他の大学との交流でも大きな話題になっていきました。今でも同大学サークルの伝説になっているようです。

そのあまりのエネルギッシュな活動や、超人的な能力が学内で話題になっていき、何人もの人が相談にやってくるようになりました。

ESS委員長時代には、 同志社付属女子高校のESSのコーチも引き受けますが、普段は優勝を争うにはほど遠かった女子高も、この年だけは当たり年で、全国英語弁論コンクールに出場する女子部員に、君は優勝するよ、君は3位になる、君は5位かなと予想したところ、その通りの結果になったというエピソードもあります。

そんなこともあり、深見東州先生のことを、本気で宇宙人にちがいないという人まで出てきたそうです。すでにこのころから、深見東州先生の超人的な能力の一端は発芽していたのでしょう。

大学時代も、本当は驚くようなエピソードがたくさんありますが、残念ながらこれだけで、他は割愛いたします。

植松愛子 (橘カオル) 先生との出会い

大学卒業後、建設会社に就職し東京に出てきた深見東州先生は、1年目からメキメキ頭角を現し、信じられないような営業力で受注を取りまくり、トップ営業マンに躍り出ます。

その営業のやり方は、菱研会員は特にたくさん聞いていますが、度胸と根性の塊のような営業であると同時に、相手をよく研究された成果でもあります。

ここでは詳しく触れませんが、興味のある方は、深見東州先生(半田晴久)著作のビジネス書を読んでください。実践的な、最強の営業方法が書かれています。

深見東州先生の凄いところは、営業などの実務能力だけにとどまりません。

その合間には、寸暇を惜しんで古今東西の古典、古書、古文献をことごとく読破するなどもされてきました。銀座にある道院紅卍字会の事務所に出向き、宗教的な求道研鑽にも励まれていました。

道院紅卍字会とは、ウィキペディアによると、『道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州において赤十字社に準ずる組織として活動した。略称として「紅卍会(こうまんじかい)」と呼ばれる』と書かれています。

関東大震災のとき、それがくることを予知していたかのごとく、真っ先に蓄えた支援物資を送ってくれたこともあるそうです。

現在、公益社団法人日本紅卍字会の名誉会長には、深見東州先生が就任されています。

この元となる道院という宗教団体は、これもウィキペディアによると、『主祭神 – 黎明期は、扶乩(フーチ、ふけい)に依る乩示(けいじ) を御信託とした天啓宗教で、修養方法等は道教の流れを汲んでいたとされている。宇宙の独一眞神を「至聖先天老祖(老祖)」とし、最上位の神体に準じて、老師(道教)、項先師(孔子の師、儒教の祖)、釈迦(仏教)、マホメット(イスラム教)、キリスト(キリスト教)とされており、加えて歴史的な聖賢哲人を祭祀する包括信仰団体である。一宗一派に偏せず万教帰一の思想とする。』ということです。

その道院は、出口王仁三郎の時代に大本と提携を結び、親密な関係を保っていました。

それもあるのでしょうか、当時は日本中の霊能者のサロン的な観もあったようです。

道院では、国士舘大学教授への招聘を固辞し、道のために生きた道院随一の碩学である根本宏氏から、多くを学ばれます。

そして、そこでも圧倒的な能力を発揮し、根本氏から、「もう私からあなたに教えるものは何もない。今度は、私があなたから教えられる番だ。山岡鉄舟を指導した滴川禅師が、鉄舟を指導する前と後では禅境が著しく激変したように、私もあなたを指導して大いに高められた気がする。君は『任天の導師』となる人に相違ない」と言われたそうです。

そうしてその数日後、昭和52年1月に、根本宏氏の仲介で、植松愛子(橘カオル)先生との出会いが訪れます。

植松愛子(橘カオル)先生と深見東州先生のお二人の出会いが、ワールドメイトの原点と言っても良いと思います。

深見東州先生は植松愛子先生を生涯の師と仰ぎ、一方では、現実界一本の厳しいお父様に激しく鍛えられながら、この先もあられもないような苦労と精進の日々が続きました。

深見東州先生が一般的な宗教家のイメージと違い、極めて理にかない、現実に即した教えを実践できるのも、現実界の常識を、ビジネスを通し、お父様との関係を通して、嫌という程叩き込まれた体験を積んでいるからでしょう。

実際にワールドメイトができるのは、この出会いから、さらに10年近くを経てからのことになります。

それまで勤めていた大和ハウスを退職し、植松愛子先生のもとでの修行が始まります。そこでは、宗教や神仙の世界だけに偏らず、しっかりと現実社会における基盤と実力を身につけていかれます。

様々な分野の仕事に取り組み、そのおかげで、多くの業界に精通することになりました。

最終的に26歳で起業した、教育事業のみすず学苑と、28歳から始めた時計事業がメインとなります。

34歳で、満を持して「神界からの神通力」を日本文芸社から発刊します。相当な反響があったようで、よく年には趣を変えた「強運」を発表します。こちらは最も売れた書籍になっていきます。

そして、その頃から、ワールドメイトの前身となる宗教活動が始まっていくのでした。

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